どうしてもやっておきたかったこと

実は、大学院入試に挑戦中です。

私のブログにおなじみの方は、いつまで放送大学行ってるの?と思っておられたかもしれません。かれこれ10年ぐらい修士選科生をやったり教養学部に戻ったりしながら、だらだら学生を続けています。最初から目標は修士号で、もともとは臨床心理士を目指していたのですが、やっているうちにだんだん自分が何がやりたいのかがわからなくなってきて、違うコースを選びました。

研究計画書のテーマは臨床心理学にも近いところではあるのですが、私がやりたいのは人に対する援助ではなくて、社会のしくみを明らかにしたり、そのしくみを変えたりすることのように思ったのがひとつ。

もうひとつは、今の私の生活実態が、家からあまり出かけることができず、臨床心理士コースの実習などに行くことが無理ということです。あまり書いてないですが、義母がだんだん記憶力があやしくなって日常の生活がおぼつかなくなってきたこともあり、私の自由がきかなくなってきました。

気がついたら56歳になっていて、今日の筆記試験では老眼鏡をかけていても辞書の文字にピントが合わず困りました。だんだん年を取って頭の回転も落ちてきましたから、もう無理なのかな、と、試験中にも関わらず心が折れそうになりました。

でも、この世を去るまでにどうしてもやっておきたかったことだ、と思いなおしました。目が見えづらいぐらいでへこたれてどうしますか。

私のこれまでの人生は、何も残せていない、あまり充実したものではなかったと思います。でも、その中から何かを掬い上げることで、意味のあるものにしたいと思います。義父母との関係や子育てに悩み、子どもが不登校になり、自分も長期の抑うつ状態に陥り、鉛のように重い足を引きずりながら通信制高校の説明会に毎週足を運んだ日々。あの頃に見えていた風景は、普通に子育てを通りぬけた母親たちとはかなり違っていただろうと思います。

私にしか書けない論文を書くこと。それが目標です。

こうやってブログに書いてしまうと、合格しなかったときどうするか、という問題にぶち当たるわけですが、そういうことも含めて私の人生の出来事として書きたいように思います。合格できなかったとしても、挑戦しなかったのとは違う達成感がすでにあります。少しずつ自分が変わって行く気持ちの良さ。新しいページがめくられてこれまで見えなかった世界が見える面白さ。筆記試験の受験勉強の中にも手ごたえがありました。

筆記に合格すれば口頭試問が待っています。明日から準備です。