失語症が教えてくれるコミュニケーションの本質

「脳とこころ」というカテゴリーを新しく作りました。実は、結婚以来25年以上同居している義母が1ヶ月ほど前に脳梗塞になり、失語症という状態になっています。もともとあった物忘れと相まっていろいろ意思疎通の困難さができてきたのですが、貴重な経験をさせてもらっているという気持ちにもなっています。ひとことで言えば、人は言葉がなくてもかなりコミュニケーションできるということです。

失語症について少し説明します。言葉を失うと書きますが、喋れないのではありません。考えていることが上手に言葉にならないのです。失語症には大きく分けてブローカ失語とウエルニッケ失語があり、うちの義母はあとの方です。喋る内容がパズルになっています。

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まるで暗号文です。「おかあさんは、ごはんいったの?」前後の文脈や目線の方向から「お父さんはお風呂行ったの?」の意味だと解釈します。「ゆのみ、ゆのみがない」足元を見ていることから、スリッパを探していると推測したら当たりでした。こういうのを錯語というのだそうです。錯語には単語がすり替わるタイプのほかに、単語の音がすり替わるものもあります。「これは、ゆまったから」余ったという意味でした。

精神的に不安定なときは、さまざまな錯語が交じり合い、意味不明なことをたくさんしゃべります。わからないのに適当に相槌を打つと急に怒り出したりするので、うかつに相手もできず、最初のうちはこちらもストレスで参りそうになったのですが、だんだん慣れてきました。これはつまり、赤ちゃんとコミュニケーションするときと同じ要領で、言葉ではなく、しぐさや表情で何を言いたいのかを読み取らなければならないということです。

動物の生態を映したテレビ番組などを見ていると、言葉を使わなくてもいろんなやりとりが観察できますが、それをちょっと思い出したりしました。人間も動物である以上、言葉以前のコミュニケーション手段を豊富に持っているものなのだな、と改めて思いました。

発語だけでなく言葉の理解にも困難さがあり、字の読み書きもほとんどできなくなってしまいました。こちらの言いたいことを伝えるのも、モノを指し示したりジェスチャーで見本を示したり工夫が要ります。脳の一部分が機能できないだけでこれだけのことが起こってしまうというのは脳生理学などの講義で学んだ通りなのですが、実物を前にして改めて人体の不思議を感じてしまいます。

介護は大変なことも多いけれど、いろいろ勉強にもなります。