創造の泉と受け継がれた技によって何かが産み出される

創造の泉について、ときどき考えます。
 
私は小説は書きませんが、作曲をします。ちょっとした歌や、ピアノ曲をつくります。
小さいときに音楽教室に通っていて、そこで作曲の手ほどきを受けました。
思いついたメロディを展開して、ちょっとした小曲にします。
とくに発表の場はありませんが、創作そのものを楽しんでいます。

なにか新しいものを作り出すとき、創造の泉から水を汲み出さなければなりません。
そして、それをかたちに整えるためには、スキルが必要です。
このスキルは、文化によって伝承されたものです。誰かに習うか、真似することによって習得された技術です。紙に書かれたものではなくて、人から人へ受け継がれたものです。

小説を書く技法、作曲の技法、編み物の技法、料理の技法、建築の技法、自動車製造の技法、高速道路建設の技法…… それらは人から人へ受け継がれたものであり、受け継いだものはその技を使いこなし新しいものを生み出します。

生産という営みは、創造の泉と受け継がれた技という二つによって成り立つのだと思うのです。
生み出されたものには価値が生まれ、経済が成り立つのだろうと思います。

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テレビのニュースで経済が話題になるとき、個人消費ばかりが強調されるのはちょっと不思議に思います。確かにモノが売れないと生産にも拍車はかからないのですが、モノを産み出す力そのものを強化しないことには経済を活性化することはできないだろうと思うからです。

大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた (ピンポイント選書)『大人のいない国』(鷲田清一内田樹プレジデント社)に、そんな私の感じ方にぴったりの表現がでてきました。「消費者であることの宿命」(p.14)。生活じたいがサーヴィスで充満しているポスト産業社会で、ひとびとは消費活動を通じて自己表現するというメンタリティを持つ。つまり、ものを作る事を自己表現の手段としない。だから、この社会の不具合に対しての当事者責任の感覚がない。

私も、この社会のあり方を作ってきた世代のひとりとしての責任ということを考えるようになったのはここ数年です。

批判するのはたやすいけれど、何かを本当に変えていったり、新しいものを作ったりするのは難しいです。そのときにはかならず、創造の泉の力と、受け継がれた技の力が必要になります。

いまの私たちの国を活性化しようとしたときに、不足しているのは消費の力じゃなくて、産み出す力だと切に思います。津々浦々、各家庭の中にあった、コマゴマとした生活の技、創意工夫の力、オリジナルのものを自分で考えてこしらえる力、それによって自己実現できる力、そのような力が衰えてきていると思います。創造の泉から汲み出し、モノに変える力です。