解離は脳と身体の中で起こっている

ところで、解離って何でしょうね。

身体の時間―“今”を生きるための精神病理学 (筑摩選書)野間俊一『身体の時間』では、心的外傷のある人がフラッシュバックを経験するとき、「急激な生命的自己の反応に対して主体的自己がついていけず、両者のあいだにずれが生じている」(p.49)と書いてありますが、この「ずれ」た感じのことを解離と呼んでいる、と、私なりには解釈しています。

「解離性同一性障害」という診断名がありますが、これは一昔前までは多重人格と呼ばれたもので、いろんな人格が入れ替わり、それぞれを覚えていないというものです。実際には、はっきりした人格交代の例はそう多くないといいます。おおかたの解離性同一障害の症状というのは、離人感(自分がここにいるという実感の喪失)、非現実感(周囲世界の現実感の喪失)、対外離脱(精神が身体から抜け出て浮遊する体験)などが断片的に生じる(p.90)と野間氏の本には書かれています。

解離というのは、端的にいえば、からだとこころがつながっていないような感じ、意識としての自分と、身体としての自分が別々のものになったような感じのことを指しているといえると思います。

「ずれ」ているんです。

それにしても、精神が身体から抜け出る、って、とってもオカルトな感じがしますよね。にわかには信じがたい。
でも、確か読みました。実験で再現できるらしいです。
単純な脳、複雑な「私」〔雨〕(以前のブログ『雨の日は本を広げて』のことをこう表記しようと思います)でとりあげた『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二、朝日出版社)にこの実験のことがでてきます。右脳の角回というところを電気刺激すると幽体離脱体験が起こると書いてあります(p.175)。おそらく、解離性障害として経験する対外離脱のときも、脳になんらかの機能の乱れが生じているんでしょうね。

幽体離脱といえば、臨死体験でも聞いたことがあります。
私の義父は半年間遷延性意識障害という状態になってから亡くなりました。87歳という年齢ですから、いかにして生き伸びるかというより、どのように死を迎えるかということの方が大事だったのかなと今にしては思いますが、当時は私自身も迷いの中でいろいろな方が書かれた物を読んだりしました。
すると、この幽体離脱の話がでてくるんですよね。
一時は植物状態などと言われた遷延性意識障害ですが、まれに意識が戻る人がいるんです。ほんとうにまれにです。戻ってきた人が、意識障害を起こし昏睡していた間の医師と家族の会話などを覚えていて再現したりするという話をいくつか見聞きしました。天井の辺りから自分の身体を眺めているというんです。
元気なお年寄りが老衰で静かに息を引き取る前の数日間、意識だけが身体から抜け出して飛んでいって、遠くに住む息子の様子などを確認してくるなどのエピソードが書かれているものもありました。

からだとこころは、ずれることがある。時に分離する。それはおそらく、最終的には脳科学によって説明がつくものなんじゃないかと私は思います。

最近読んだこの本には、解離のことがもっと具体的な身体のメカニズムとしてかかれていましたよね。9月24日の記事です。『ユルかしこい身体になる 整体でわかる情報ストレスに負けないカラダとココロのメカニズム』(片山洋次郎)。

ユルかしこい身体になる 整体でわかる情報ストレスに負けないカラダとココロのメカニズム情報を胸で受け取る→胸が固まる→息が浅くなる→解離がおきる、といったことが書かれていました。ここでは、解離という言葉をずっと広い意味で、身体と意識のずれとしてみていました。野生動物のように心身が一致した状態では、そもそも抽象的なことを考えたりしないのだそうで、人間の思考のいとなみはある種解離する力があるからこそ生まれたと言えるのかもしれません。池谷氏も「他人の視点をとることができる」人間の能力と幽体離脱体験には関係があるだろうというようなことを書いておられました(池谷p.176)。

身体と意識がずれる「解離」という現象は、人間なら誰にでも備わっている性質で、それが病的にならない程度にコントロールされていることが大事ということなんだろうと思います。この見方は今後変わるかもしれませんが、今の時点での私の考えです。