二階建ての哲学という問題提起をしてみます

漢方に限らず、日本にはそれなりに体系化された伝統療法がありますよね。

おばあちゃんの知恵として家庭で言い伝えられてきたようなものを民間療法と呼ぶならば、その範疇を超えて、専門家の養成方法が確立され、伝書が読み継がれ、手法が確立しているものがいろいろあります。

鍼灸や整体なども、漢方と同じく、今は一部健康保険の適用を受けることができますが、医学のメインストリームからは外れ特殊な位置づけを持っているように見えます。

これが、患者の側からみると、なんとも使いづらいし、どう付き合えばいいのか難しいところのように思います。症状によっては、鍼灸や整体、漢方などを使ったほうがずっと楽になる場合でも、たいていの医師はそれを教えてくれないし、知らないし、知らなくてもぜんぜん構わないという態度をとるのは、なぜなんでしょうか。


これに関して、先日からひっかかっている言葉があります。

 二階建ての哲学   

臨床とことば (朝日文庫)臨床心理家の河合隼雄臨床哲学者の鷲田清一の対談を収録した本『臨床とことば』(朝日文庫)のなかに、カール・レヴィットというドイツ人哲学者が日本の哲学者について述べたことについて話している箇所があります。

日本の哲学者は奇妙で、一階に住んで人々と同じふるまいをしているのに、哲学するときだけ二階に上がってくる。ヨーロッパの哲学教室があって、音楽教室のように哲学者の絵とか写真が吊るしてあって、それを見ていろいろしゃべって。で、ふっと見たときには、もう階段は外してあって、降りられなくなってるって。日本の哲学研究者は哲学という批判的思考をとおして自分の生活、自分の文化を吟味するということをしていない。つまり、一階と二階を全然行き来できないということだったんですけど、これは今でも克服されていないような気がする……。(pp.32-33)

ヨーロッパから入ってきた学問と普段の生活の間に仕切りがあって連関がない。哲学学とでもいえるような、高名な学者がこういっただのああいっただのとこねくり回す学問は発達したけれどそれが人生の何に役立つのかさっぱりわからない。でも、哲学というものは本当は、自分が生きていることと密接にかかわるもののはずなんですよね。

日本人はつまり、西洋の外国の科学をどうとりいれるか、どう追いつくかということを考えすぎた。何とか近代科学に追いつこうという姿勢が強すぎるわけですよ。それ以外のものはだめだと排除している。だからかえって欧米のほうが考え方に柔軟性がありますよね。日本は硬いでしょう。(中略)トランス・パーソナル学会を、1983、4年だったか、日本でやったことがあるんですよ。(中略)日本の人は皆トランス・パーソナルだと思って日本に来たら、出てくる学者が皆コチコチでしょ。(中略)日本の伝統的なカルチャーはトランス・パーソナルやとすごく思ってるんだけど、それを否定することによって学問ができると皆考えているから、こういうことが起こるんや(p.52)

トランス・パーソナルというのは個を超えるものとの繋がりを意識した学問でいわゆるスピリチュアルという分野に関わってくるものです。日本ではそういうものはまともな学問ではないという感覚でとらえられがちですが、欧米ではちゃんとした学問として研究されている。

私たちの文化は、気合いだとか、以心伝心だとか、言霊(ことだま)だとか、そういうトランスパーソナルなものを大切にしてきたはずなのに、それらは放っておいて、カタカナの学者の本を読んで議論するのが学問だと思ってきたからそれを地続きで論ずることができない。

二階に西洋の学問があって、一階で日本的な生活があって、それは区別されているんですよね。

このような議論を受けて、『二階建ての哲学』と名づけてみました。哲学に限らず、日本のさまざまな学問を考えてみれば、多かれ少なかれ同じような二階建て構造が見つけられるのではないかと思います。


最初の話にもどります。

漢方や鍼灸、整体などはもともと一階部分に属し、西洋医学は二階部分にあたります。それらを行き来できる理論体系が見当たらないんですよね。階段が外されている。

患者の方でも、西洋医学のほうがなんだか凄いんじゃないかというブランド志向を持ちつつ、日本的な感覚を頼りに伝統療法を試したり、神頼みしたりする。患者も一階と二階を使い分けている。

西洋にも代替療法というのはあるのですが、ここまでの二階建て構造はないんじゃないでしょうか。知っている人がいたら教えてください。

とりあえずの問題提起として 二階建ての哲学 という言葉を記したいと思います。
これまでの日本の学問というものがそのような構造を持っていたという認識の枠組みを持っておくことで、見えてくるものがあるように思います。