消費のまちと産み出す力(1)

神戸の街は一見復興したように見えていますが、小さな町工場はほとんど再建されていないときいています。古くから続いてきた産業が消えて、ただの住宅街になってしまいました。
これは地震のせいというより、時代の流れが加速されただけなのかもしれません。

私は30年ほどまえ九州の地方都市から上京し、大学を出たのち東京で5年近く会社員をしていたのですが、驚いたのは、寝泊りしている街と働く街の距離がおそろしく離れているということ。通勤が二時間それ以上とか、県境を二つまたいで出勤とか、それも電車に荷物のように詰め込まれて毎日やっているんですね。

私がそれを見て思ったのは、過酷な労働環境ということよりもむしろ、残された家族のことでした。子どもが親の働く姿を見る機会がなく、休日のくつろいだ姿しか見られないという状況はとても違和感がありました。

結婚して関西に来て、かろうじて夫の職場は車で15分のところでしたが、セキュリティチェックがあって実際に子どもを連れて行くことはできませんでした。そのうち夫の同僚も次々と遠い町に家を建てて暮らすようになりました。通勤時間が一時間、二時間という人たちがどんどん増えていったのは関西ではここ20年ぐらいのことじゃないかと思います。

20年以上経つと、それ以前を知らない世代が大人になって、そのことが当たり前のように感じられるのだと思いますが、子どもの見える範囲の場所で親が働いていないというのは人間として本来とても異常なことなんじゃないでしょうか。

子どもは、働くというやり方を遺伝子に組み込まれているわけではなく、親を見て学ぶようプログラムされて生まれてきているはずです。休日のパパから何を学ぶというのでしょうか。※

語りきれないこと  危機と傷みの哲学 (角川oneテーマ21)鷲田清一『語りきれないこと−危機と痛みの哲学』(角川oneテーマ21)に、「消費の町」というぴったりの言葉が出てきました。労働なき町という表現もされていますが、消費に対する言葉は生産でしょう。消費の町にもスーパーぐらいはあります。でも、何かを産み出すための仕事場がないんですよね。

それは言ってみれば、消費でなりたっている町です。昼間、そこにいるのは専業主婦や子どもたちです。(中略)人びとは、税金を払ったりサービス料を払ったりして、サービスを消費している。(p.87)

子どもと主婦、それに大量の高齢者が住むまちが、日本中の昼間に出現しています。最近気がつくのは、私たち50代を境にして、自分の子どもが中高生になっても家庭にとどまる主婦が非常に少なくなっていることです。
あと10年もすれば、昼間の住宅街は、子どもと高齢者だけになるでしょう。

子ども、高齢者、ノラ猫だけが住む町。何も産み出さない町。消費のまち。

まるでSF小説のような、不気味な話だと思いませんか。

この話はもうすこし続けたいと思います。次へ。


※以前のブログに日高敏隆『人間は遺伝か環境か?遺伝的プログラム論』(文春新書)を読んだ記事があります。よかったら参考にしてください。