私にとって社会的なコミュニケーションを困難にしていたもの

以前のブログで私が一番気にしていた「発達障害」は、もっとも軽度の自閉症スペクトラム、広汎性発達障害とかアスペルガー症候群とか呼ばれる人、とくに大人たちのことでした。

同じ「発達障害」といっても、幼児の自閉症を思い浮かべる人もいれば、小学生のADHDのことを考える人もいて、コメントをいただいても議論がかみ合わないこともありました。

支援学級や作業所などで重度の自閉症の子どもさんや大人の方と接する機会もありましたが、私はどうしても、重度の自閉症の人たちと、軽度の「発達障害」と呼ばれている人たちがほんとうに同じ性質のものの一続きであるのか、納得がいかない感じを持ち続けていました。

重度の自閉症の子どもたちは、親が精一杯の療育を施しても、さまざまな困難を残しながら大人になっていきます。でも、発達障害バブルといわれた時期に「発達障害」とされた成人の大多数は、単にさまざまな事情によって成長しそこなっているだけで、本来はちゃんと「発達」できる可能性を秘めている人たちなのではないかと思えて仕方がありませんでした。

精神科の診断に用いられる診断分類マニュアルDSMが昨年(2013年)改訂され、新たに、社会的コミュニケーション障害という診断名が加わることになりました。この診断基準によると、これまで広汎性発達障害アスペルガー症候群という診断だった人の一部が自閉症スペクトラムから外されこちらに分類される可能性があるのだそうです。(『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告 (小学館新書)』p.149)。
DSMは、報告された多数の症例を統計的に分析して分類しているということですから、これらの「発達障害」な人たちに自閉症とは違うなんらかの違いを見出したということなんだろうと思います。

自閉症とはちょっと色合いの違う、コミュニケーションの苦手な人たち。自閉症のような明確なこだわりや反復行動が見られず、おもに、語用論的な困難さだけが目立つ人たちです。
私なりの表現をすれば、「文脈オンチ」な人たちです。
やりとりの不器用さが目立ち、話していると、この人は相手の気持ちがまったく読めていないのではないかと感じる人。話すことやることなすこと、外から見ると独りよがりな自分の都合だけでやっているように思えるのに、本人は至って真面目で傷つきやすい。

断定的な書き方をしたのには理由があります。私自身がそのようであったと感じるからです。そして、長いうつのトンネルをくぐり抜けて、今はもう、文脈オンチではなくなりました。ほぼ大丈夫と感じられています。

新しい診断基準DSM-5においても、社会的コミュニケーション障害は神経発達障害に分類されているようですが、私はこれにはさまざまな環境要因が折り重なるように関係しているんじゃないかと思います。私自身は、親との親密性などの家庭環境、学校などの社会的な環境、そして、免疫機能のような身体的な環境のどれにも思い当たる節があるように思います。

私は、ひとが生きていくうえでの大きな文脈としての「信頼関係」を理解したとき、何を基準に人と接していけばいいのかわかるようになりました。「信頼」をわかるためには、身体感覚としての絆の感覚が必要でした。おそらくそこに、オキシトシンというホルモンが関係していたのだろうと思います。
今となっては、どうして「信頼」がわからないまま大人になってしまっていたのか、少しはわかるような気がします。同じような症状を持つほかの人たちと共通のこともあれば違うこともあるとは思いますが、自分においてどうだったのか、ということを書き留めておきたいと思います。次回より。