ブラック企業と管理教育のどこが似ているのか

大学卒業を控えた息子がひとりいるので、巷の労働環境のことを知りたいと思いました。

でもこの本で読む限り、これは私たちが若い頃に学校で行われていたことと本質的に同じだと感じました。手口はだんだん巧妙にはなってきています。

ブラック企業経営者の本音 (扶桑社新書)ブラック企業経営者の本音』(秋山謙一郎、扶桑社2014)週刊誌に記事を書いている方の文章であり多少誇張があることを考慮に入れたとしても、世相の一端は見て取れます。

世間では労働環境だけを比較してブラックだのホワイトだの言っているようですが、要はその会社が企業として何を目的にしているかという本質的な部分にかかわってくるのではないでしょうか。

人間社会にとって必要な しごと をしようとしているのか。それとも、
社会の中で自分が他社よりも優位に立つことを目的にしているのか。

ふたつのうちどちらを指して 成功 だと考えているのか。

こう言い換えることもできます。

絆をつなぎ信頼を深め皆で幸せになることを目的にしているのか。それとも、
絆などなくてもお金を持っていると人が寄ってくるその安心感を求めているのか

ブラック企業の住人は心寂しい人たちです。


高校のとき、校門の横に『真・善・美』と書かれた石碑がありました。
実態は、偽りや悪や醜いものが放置されたり、奨励されたりしている、と、当時感じていました。青年期のみずみずしい感性がそう感じた、でも、社会に出て現実を処する知恵もに身についた、というのなら、それもいい話のひとつです。

でも、私の場合、かなり長い間尾を引いていたと思います。

管理教育というなら、中学までも、髪型を強制されたりマスゲームをやらされたりいろいろありました。でも、心の傷となって残ったのは、高校時代のことです。

いまになって考えてみれば、ブラック企業の話と似ています。

子どもの健やかな成長を願い将来社会に役立つ人間を育てるという文脈での管理 と、
子どもの試験の点数を上げ、ひとりでも多くの大学合格者を出すという文脈での管理 には

おおきな違いがあります。

あの頃、何のために大学に合格しなければならないのか、だんだん解らなくなっていました。
正規の授業の前後に補習があって、宿題や小テストもあって、24時間の全てが管理されていました。校門を入ると戸外でひざをついて物差しでスカート丈を計る、かばんの中を調べられる。宿題を提出しないと罰があるので、登校するとすぐにクラスメートの答案を写し合っていました。
神戸の高校で校門圧死事件が起きたのは少し後ですが、私の高校でも遅刻を管理するために登校時間が終わると校門を閉めていました。記憶に間違いがなければ、私の在学中に閉めるように変わっていきました。

ほんの数年のうちに、嵐がやってきたように、学校の空気が変わって行ったように思います。

いつの間にか、学校の業績に生徒が協力させられる、そのために管理されるようになってしまっていました。教育と称して与えられるのは大量の知識の餌であり、食べて太って出荷されるブロイラーのようだとも感じました。

はやく出たい、出て自由になりたいと思っていました。


高校は年限が来れば出ることができる場所です。でも会社は違うでしょう。もっとも、ブラック企業では使い捨てられ、いつか辞めなければならないかもしれないです。でも心の傷は残ります。

残るのは心の傷、といえば身体には何の影響も及ぼさないような印象を与えるけれど、脳の機能、自律神経や免疫といった身体レベルのバランス障害として残っていくのだとすればどうでしょう。

発達障害のことを一部の臨床心理の学派の方がたが「主体性のなさ」と表現しておられるのを知っていますが、管理教育もブラック企業も、人の主体性を暴力的に奪っていくものだということと符合します。主体的に絆をつくるためのやわらかな触手を、管理によって刈り取っているのだとすれば、その「発達障害」は、生まれつきのものではありません。

これは私の勝手な想像で、何の根拠もありません。でも、以前からときどき考えていたことではあります。