計算ドリルと漢字ドリルに感じた嫌悪感を今も忘れない

向山洋一という教育家の方が、計算や漢字のドリルの弊害について述べたものを最近読ませてもらいました。新聞のコラムです→解答乱麻 手抜きでドリル教材を使う害 TOSS代表・向山洋一
できる問題を何度もやらされることで、勉強嫌いになるという趣旨のことが書いてあったと思います。

そういう意見もあるので思い切って書いてみますが、私は、小学校2年生のときにドリル学習が始まったときの嫌悪感を今も覚えています。今でも、ドリルは嫌いです。
ちなみに、私は今50歳を超えていますから、40年以上前の話です。
今でも、ドリルは生き残っているし、有効な学習法として支持されています。他の人はドリルが嫌いではないのでしょうか。嫌いだけれど必要だから仕方ないと受けいれているということなのでしょうか。

私の記憶の限りでは、私が小学校1年生のときの担任はドリルを使いませんでした。
この先生はこの年限りで定年退職されたので、私より55歳ぐらい年上だとすると、明治の終わりぐらいの生まれの方だったのだろうと思います。
私はこの方に、足し算や引き算の基礎を教えてもらいました。教室では板書される問題をノートに書き写して解く、ゆったりした時間が流れていたように思います。
問題の数はこなせなかったかもしれませんが、その代わり、先生は教室の空気を読みながら、
ポイントを絞った指導をされていたのではないかと想像しています。
与えられる問題は、常に私たちの理解度に合わせて愛情を込めてアレンジされていました。

計算ドリルは、既製品です。私が嫌悪を感じたのはその無機質さだったように思います。
私が小学生だった当時は、先生方は教材プリントを作るのに手書きのガリ版で手作業で印刷しておられたわけですから、ドリルのような印刷された補助教材があるのは便利だったに違いありません。その後、私が中学生ごろになってくると、問題集などを原稿にして簡単に輪転機の原版をつくる機械ができ、教科書のほかに大量の教材プリントが授業に使われるようになっていきました。高校では、次々と補助教材として問題集を買わされました。

昭和の日本が豊かになっていった時代と重なっていますから、学校の現場もその便利さを積極的に取り入れていったのだろうと思います。
でも、それと引き換えに、教える側と学ぶ側の間でやりとりされる息使いというか、その間に流れるものの質は失われていったのではないでしょうか。
便利なものとして既製品の問題集を取り入れた当初は、それでも問題を選んで使ったり上手に使っていたのかもしれませんが、だんだんと、ただ順番にやるだけ、理解できていてもできなくても、そして、これをやらせておけば仕事をしたような気になる、手抜きの道具になってしまったのかもしれません。向山氏が指摘するのはこの点でしょう。

向山氏はドリル学習では勉強嫌いになると主張され、オリジナルの教材を開発されているようですが、どんな教材でも、教室で使われる限り、学ぶ者と教える者との間に成立する関係性を引き出す道具として上手に使われたときに意味があるのだろうと思います。

私の子どもとしての感性はちゃんと、先生と生徒の間に流れる信頼の絆を捉えていたし、ドリルが導入されたときの嫌悪感はちょっとした心の傷として残りました。
40年以上を経た今でもちゃんと覚えています。

私のこの感じ方がどの程度通じるのかはよくわかりません。私はある時期まで自分の周囲の誰もが同じように感じると信じていましたが、だんだん、私のほうが特殊なのかもしれないと思い始めていました。向山氏のコラムで、ドリルの効果に疑問を持つ人たちもいることがわかり、ちょっと嬉しい気がしています。