葛藤することが人を深い場所に連れて行く

世の中のつじつまの合わないことは、同じものの表と裏であったり、正面と側面であったりすることに気づくときがあります。意見が対立していても、相手の持つ文脈を理解することで合意の道筋を探ることができます。

そんなことを考えていたところでした。

ちょうどこの本を読んでいたたら、それに近いことを、教育論として語っていました。
街場の教育論『街場の教育論』(内田樹、ミシマ社2008年)教育というのは、すばらしい教材や、すばらしい先生がいれば達成されるものではないのだというのです。大人は子どもを葛藤させ、子どもは葛藤を自分で乗り越えることで成長する、それこそが教育。


そういえば私は小さいときから、母と祖母の対立や、宗教の違いや、実家と婚家の違いに悩んできました。どちらかを捨てるのではなく、どちらも大事にしたいという気持ちがあり、生真面目にそれに取り組んできたように思います。葛藤があったことが、自分をこころの病に誘い込んだのだから、それらは不幸の始まりと考えていたのですが、実はそれらの葛藤が私の人生を深い場所へ連れてきたのかもしれないです。

内田氏の教育に対する考え方には共感することが多かったのですが、これが一般の人びとに受けいれらるのだろうかという疑問は残りました。

葛藤している人は最近、馬鹿にされることが多いように思うからです。
つじつまの合わないことがあったら、片方を捨てる人が賢いと思われているように感じます。


本の最後の方に、宗教とか霊性とかいうことについて述べた部分があって、葛藤するもののせめぎあいやバランスが、人間の本質であるというようなことが書かれていました。これもどの程度受けいれられるのでしょうか。古来賢人といわれる人たちの言説をつき合わせても、片方を捨ててしまうことほど愚かなことはないはずなのに、それを大きな声で言うことがができなくなってしまっている、と、思います。

葛藤する人間が奥行きのある世界に気づいていくことが人間の成長であり、教育はそれを手助けしていく手段だと考えることができます。その意味では、教育の場所は学校だけではないです。