人と人の力関係の暗黙のルールをことばにする

無いものが無いと気づくのは、それが世の中にあるということが認識できて初めて可能です。
知らないものは最初から在るか無いかもわからないのであり、それが在るという状態を知って初めて、「無い」と言えるわけなんですよね。

私が今、昔の私に「悔しい」が無かったと言うことができるのは、今現在この感情をしっかり把握できているからです。おおこれが「悔しい」なのか、とわかったのは数年前で、以前やっていたブログにはその日の日記が残されています。

同じぐらいの時期にわかってきた感情に「失礼」があります。侮辱されているというような強いものから、軽く見られて不快といったものまで、程度の差はあれ、自分が不当に扱われていると感じる感情です。

その前提には、自分はこのくらい大事に扱われて当然という基準があります。
これもプライド、自尊感情に関わる話で、私の中にずっとこじれがあったということなんだろうと思います。

「失礼」という言葉を知らなかったわけではないのですが、礼儀というのは、目上の人に対して表すものという程度の認識でした。実際は友人どうしでも、言葉が滑って相手の気分を害したときなどに「失礼しました」と謝ることがあるわけですが、これがうまく使えなくて困っていました。

「失礼」が実感としてわかるようになってきたとき意識されたのは人と人との微妙な力関係でした。モノの貸し借り、困ったときに世話したりされたり、些細なやりとりのなかで力関係は意識され、暗黙のうちにルール化されているのでした。

その力関係のルールについてアメリカの人が書いているのを読みました。
人を助けるとはどういうことか 本当の「協力関係」をつくる7つの原則『人を助けるとはどういうことか 本当の協力関係をつくる7つの原則』(エドガー・H・シャイン、英治出版2009)助けを求める人と助ける人の間には力関係が生じること。助ける人間の方が強く、助けられる方は弱くなる。人を助けようとするとき、相手の立場が弱くなることに配慮することで支援や協力がやりやすくなることが強調されていました。

私はこの本を読み始めたとき、こういうことを真正面から解説した本は珍しいし、私のように人間関係にオクテなタイプには有益と感じました。しかし、読み終わってみると、なんだか単純すぎるような気がしてきたんですよね。

日本人って、もっと繊細に、相手との立場の上下関係を時々刻々感じながら暮らしているものじゃないでしょうか。

特に関西の人たちの細やかさは、私が暮らした3つの町の中では群を抜いているように思います。今私が暮らしている環境では、言葉遣い、席順、贈り物等、気遣うことが当たり前だし、そこには名目上の上下関係だけでない、微妙な「立場の感覚」が必要なように感じます。暗黙のルールの中では立場の上下関係は明確に認識されていて、それからずれたことをするのは「失礼」にあたります。

支援するほうがいつも立場が上かというと、そんなに単純ではないですよね。主導権を握るためにわざと下手にでるということは日常的にあります。命令調ではなくお願いベースで頼むことは、作戦としてよく行われていることです。

もういちど書きますが、こういうことは私はかなりオクテでした。オクテだったからこそ言葉にできるということはあると思います。早い人は幼児期から気がつき実践していることだと思いますが、そういう人は当たり前すぎて言葉にできないものじゃないでしょうか。

この本の中では、愛情、思いやり、認識、受容、賞賛、支援を「社会的通貨」とし、それらのやりとりを「社会経済」として、人間関係の中に流れる「やりとり」を見えやすい形で捉えようとしていました。この表現方法じたいは新しくて、基本的な部分ではアメリカ人も日本人も変わらないし、それなりに有益だとは思いますが、日本人の中にある人間関係のルールを表そうとするともっと複雑で精緻なモデルが必要になるのかもしれないです。