1980年頃の学校に何が起こっていたか

藤澤伸介『ごまかし勉強〈上〉学力低下を助長するシステム』(新曜社)では、勉強のやり方を「正統派」と「ごまかし」に分けています。あまり意味も考えず丸暗記するような試験勉強をやった経験は多くの人にあるのではないかと思いますが、そういう類の勉強は「ごまかし」で、しっかり意味を理解し興味が広がり内容が身についていく勉強のやり方は「正統派」です。
何から何まで「正統派」を貫いた人は少ないと思います。正統派の勉強をしていても試験前だけごまかしに走ったり、、科目によってその比率が違っていたりしていて当たり前です。この本でも「まだら」に混合しているのが普通だと表現してあります。

しかしある時期から、日本の教育シーンのなかに、正統派の勉強が極端に減り、ごまかし系の勉強の仕方が当たり前のように幅を利かせるようになってきたといいます。この本では1970年代の学生の勉強スタイルと1990年代のそれを比較して、大きく様変わりしたことを強調しています。この間に何かが起こっていたのですが、当時私は現役の学生でした。
確かに何かが起こっていました。はっきり覚えています。

中学2年生の秋ごろから始まりました。1979年ということになります。英語の授業がプリントばかりになりました。文法の穴埋め問題のプリントを10枚こなし、その内容の範囲内でテストがあります。合格点を取れないと再テストがありました。先生が大きな声で、問題文に too があれば to 、so と来たら thatであると連呼していたのをよく覚えています。
本来の意味で英語の理解が深まることはないのに、試験の点数が上がるようなこのやり方を私は憎みました。これは勉強ではない、ちゃんと勉強がしたいと心から願いました。でも、この先生のことを、大人たちが高く評価しているということを耳にしたとき、その願いは打ち砕かれました。

当時を振り返ると、大人たちの願いは、子どもを大学にやることでした。
特に、男の子はどうしても大学に入れたい、そのためには少しでも良い点を取らせたい。あの英語の先生は成績を上げてくれる素晴らしい先生だという評判なのだそうでした。
あの頃はまだ私の周りにも、中卒で働く人や、高卒で就職するには普通科より職業科が有利と考える人がたくさんいました。でも大学に行きたい人が急激に増えていった時代だと思います。

高校に入ってからはもっと極端なことが起こっていました。いわゆる正統派の先生と、手段を選ばず成績を上げることに血道をあげる先生とにはっきり分かれていたように思います。英作文の授業はとうとう、例文を丸暗記するだけで一年の全てを費やすような状況になりましたし、数学では、答案を丸暗記させる小テストが行われるようになりました。英文法の穴埋め問題は、条件反射を起こすまで何度もやらされました。
楽しい勉強をおいしい料理にたとえれば、これは飼料、エサだと感じていました。ぶくぶくと太らせて私たちは売られるのだ、学校の合格実績数に協力させられているだけだとも感じました。

この本の分析でも、ごまかし勉強を広めたのは、学校の先生であるということになっています。私もその説に賛成です。その引き金となり、さらに助長したのは教材をつくる出版社であり、大手の塾だったということになります。
でもその背景にあった時代状況が、そうさせたのではないかと私は考えます。なによりも保護者が、どんな手段を使ってもテストの点数を上げることを望んだし、その先には大学進学という目標がありました。

1980年ごろ社会の構造が変わろうとしていたのだと思います。社会が大学卒を大量に必要としていたし、もしかしたらそこで求められていたのは本質的にものを考える力ではなくて、要領よく課題をこなす力だったり、時間管理の能力だったり、単純な事務作業に耐える力だったりしたかもしれません。勉強としてはごまかしだとしてもそれは当時の社会に受けいれられ、一定の評価を得ていました。

おそらくそのような時代状況は変わり、本来の<勉強>を取り戻す必要に迫られていると思うのですが、本当の勉強の愉しみを伝えられる人はどれくらいいるのでしょうか。私はこの本が多くの人に読まれて欲しいと思いますが、おおかたの読者は自分の勉強法を「ごまかし」と断じられることに耐えられないと思います。それほどごまかし勉強法は日本社会に蔓延しているし、もう誰もおかしいと思わなくなっているからです。