倫理を論じることは結局教養を論じることになる

結果主義と倫理意識を並べて論じることに違和感を覚える人もいるのではないでしょうか。それほど結果主義は当たり前のようになってきました。(ここから読む方は前の記事も参考に)

たとえば、企業が利益さえ上がればどんな手段をとっても良いのなら、最終的には詐欺まがいのこともやってのけるかもしれません。本来は社会に貢献することと利益を追求することがかみ合ってこその企業のはずです。実際の企業がどのようであるか、世間知らずの私には外側からしかわかりませんが、なかなか理想どおりにはいかないもののように見えます。

勉強の場合、求める<結果>は何だったのでしょう。
成績、最終的には受験に受かって大学に入ることが目的で、大卒のパスポートを手に入れてよい就職が得られればいいと考えるのなら、ごまかしといわれようが合理的なやり方だったということなんでしょう。
でも、勉強の目的は、人生を切り開く力や社会に貢献する力をつけることだと考えていたとしたら、そのような力を質的に感じる力があれば、目的に合わないようなごまかし方はおかしいと感じるはずです。

それは結局、教養とは何かという話につながるような気がします。
つまり、捨ててはいけない大事なものと、どうでも良いものの区別がつく力です。


こうやって考えてきて、自分の子どもが不登校になって学校に行かなかったことが、別な風に見えてきました。行かないことで楽しく勉強できたこともたくさんあったように思うからです。
新聞記事やニュースを話題にしながら親子でゆっくり話しましたし、興味が深まれば関連の映画をDVDを借りて観たり、資料館や史跡を訪ねたりしました。
半年ほどの受験準備でどうにか大学に行きましたが、視点の広さでは他の学生に負けないユニークな子どもに育ちました。
私自身子どもと一緒にたくさん勉強したし、上っ面ではない深い理解への入り口へたどり着き、大学院で学ぶという目標(息子ではなくて、私のことです)が立てられたように思います。



自分にもっと自信をもっていいんじゃないかという気がしてきました。
これまでほんとうに卑屈になりすぎていたように思います。ほっとしています。