絶対音感と真の音感

私は自分の「絶対音感」が別な調にずれて聞こえてしまうことに、思い当たる節があります。
小学校6年生のときに、小学校の音楽の先生に移動ド法で歌唱するよう指導されたことです。

ご存知の方も多いと思いますが、ヤマハ音楽教室では、何調の歌でも固定ド法でドレミで歌うように指導されます。ハ長調以外の調ではピアノの黒鍵にあたる音もたくさん出てくるのですが、ソ#もソ♭もとりあえずソと発音し半音違った音高で歌うのです。固定ド法で歌うことを特にあれこれ言う先生は小学校5年生まではいなかったのですが、6年生の年に転勤で来られた音楽の先生が、調に合わせてドレミの位置をずらす歌い方をするように「指導」されました。私にとってはかなり苦痛な「強制」でした。
この指導法に適応するため、私は頭の中で翻訳をしました。移調は自由にできるようになっていたので、絶対音の感覚を括弧に入れて、そのときの調での「ドレミファソラシド」に感覚をチューニングします。やっているうちに少しずつ慣れていったのを覚えています。そのときよく使ったのが、変ロ長調の音階でした。
変ロ長調というのは、わかる方にはピンとくると思います。吹奏楽でよく使われる音階です。この新しくやってきた音楽の先生は私たちの学校に吹奏楽部を立ち上げ、私も数ヶ月間フルートを吹いていました。

その後移動ド法を使ったことはあまりないし、今も固定ド法の方が使いやすいと感じているのですが、基準音が与えられずにいきなり音を聞いたときは、B♭(ドイツ読みではベー)の音をドとしてドレミを聞いてしまうことが多いようです。あのとき、私の「絶対音感」に修正が入ってしまったのかなと思います。

しかし、このエピソードからもわかるように、ここでいう「絶対音感」というのは、音の感覚そのもののことではありません。ある音の高さに「名前」が結びついているという共感覚的な技能です。そろばんの上級者がよく、空に指を動かすだけで珠がなくても計算をやりますが、そういう類のものだと思います。
本来の意味での絶対音感というのは、名前がついているいないに関わらず絶対的な音の高さがわかることだと思いますし、それは精度の個人差はあってもほとんどの人にあって、前掲の『絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿 (DOJIN選書)』でも、潜在的絶対音感として紹介されていました。また、ドレミでの歌唱や読譜はまったくできない人でも、歌が上手だったり音楽を聴いた反応などから「この人の耳は感度がいいな」と感じることは多々あります。また、特に聴き慣れている音の高さはわりと正確に思い出せるもので、音名がわかるかどうかとは関係ありません。

絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿 (DOJIN選書)』では、ヤマハ音楽教室に代表される幼児期からの音楽教育で、いわゆる絶対音感が身についている日本人は多いものの、それがかえって相対的な音高の差を感じる感性を伸ばすことを妨げているように見える例が多々あることを報告し、それが日本の音楽教育のやりかたの問題である可能性を指摘しています(p.199)。
この話は、前述の「ごまかし勉強」と関連づけて考えることができるかもしれません。本質的に学ぶべきことは脇において試験の結果に直結するような訓練ばかりをやることが、この数十年の日本ではスタンダードになってきている現状があるということです。音楽教育において本質とは何なんでしょうか?
本質的なことは「質」の問題であるがゆえに、そこへ到達していない人には理解できないし、論じることも伝えることも困難です。しかし、伝えなかったらそれはいつか世代の交代とともに衰退してしまう貴重なものであることを忘れてはいけないと思います。

音高の認識にドレミが付随していることと音感が良いことは別なことだということは確かのようです。
ドレミで歌えることを「絶対音感」と呼ぶのはやめたほうがいいと思います。「音名術」とか「音高言語変換」とか、別な風に呼び名を考えたほうがいいんじゃないでしょうか。