戸惑いや迷いも感情の一種だとわかるようになりました

自分の気持ちに気がついていることが難しいと感じてきましたが、最近これも感情かなと思い始めたのが、迷うということです。

どちらが良いのかわからない、今決めたけれどほんとうにこれで良かったのか自信がない。
そんなことが今までもたくさんあったのですが、それを「感情」とは考えてきませんでした。
でも、このときに動いている感情はある種の不安だし、身体的にも緊張した感じやもやもやした内臓感覚などがあるはずです。

その感覚を拾ったとき「ああ、今私は迷っているな」と感じる。
それは、悲しいとか、嬉しいとか、悔しいとか、いわゆる感情を拾ったときと同じです。
身体に起こっている反応を拾って、それが言葉になったとき、感情として意識にのぼってくるんですよね。
だから、これも感情なのだろうと、最近思い始めているわけです。

何のことを言っているのかわからない読者もおられると思います。迷いは迷いであって、そんなに小難しく考える必要もないと考えるかもしれないです。
でもこれまでの私にとって、迷いとは、身体が固まって凍りついてしまう体験で、簡単なものではなかったように思います。どうしていいかわからないとか、今決めたことでよかったかどうかといような「考え」は頭の中にあるのですが、それが身体に起こっている不安な感情とうまく結びついていませんでした。

その感情をうまく「拾って」言葉に置き換えたとき、ある種の解放が起こるように思います。
今、自分は迷っている。ただ、それを言葉にするだけで身体の固まりがほどけます。

今まだうまく決められていないので少し待って欲しいと人に頼めることや、とりあえず決めたもののこれでよいのか少し不安ですと表現できることが、どれだけコミュニケーションを楽にするか、それができないタイプの人ならわかっていただけると思います。うまく言えないのは、まず自分の中にある、迷っているという気持ちをつかまえて言葉にすることができないからでした。

迷っているのも私の大事な気持ちだから大切に扱っていいのだと感じることは、自己肯定感ともつながっています。権利という言葉はあまり好きではないのですが、あえて使えば、誰にでも迷う権利がある、ということなんだろうと思います。迷っていることはおかしなことでも駄目なことでもなくて、当たり前に誰にでもあるし、それを口にするのは恥ずかしいことではないです。

予期していたことと違って戸惑ったときも同じだろうと思います。
固まって感情を押し殺してしまわずに、私は今戸惑っていると口にだすこと、出さないにしてもこころの中で今戸惑っているとわかっていること、それによって次の対応がスムーズにいくだろうと思います。