「知識人」という言葉について

「知識人」という言葉にこだわって書いてみたいと思います。

私は30年ちょっと前に九州の故郷を出て東京の大学に進みました。親類縁者には大学に行ったものはほとんどおらず、「大学に行く」ということに大きな期待と不安を抱えていたのを思い出します。
大学に行けば「インテリ=知識人」になるのだと不遜にも思っていました。

実際、地方においては、大学を出て専門性を身につけている人は、指導的な立場で意見を求められるなど特別な位置づけを持っていただろうと思います。その昔はお坊さんや武家などが果たしていた役割を医師や教師などが受け継いだというか、とにかく、先見性を持ちリーダーシップをとる人たちが「インテリ」だったろうと思います。

それに比べて、都会のほうにいくと、そういう区別があいまいに見えます。実際高学歴の人が多いですし、特別それを気負う必要も無いからなのか、世の中には無関心で自分のことしか考えていない人たちもたくさんいます。そういう人たちは意識の上では庶民のほうに属しますよね。大衆といってもいい。
都会では大きな組織に属して働くことが求められるし、大学を出たからといって全ての人間に先見性やリーダーシップが必要とされるわけでもないです。
そうすると、どこからが「知識人」になるのだろうかとわからなくなるのです。

「知識人」というのは、絶対的な価値づけをいうのではなくて、役割のことなのかもしれない、と、ふと思いつきました。世の中がまとまって動くには、旗を振る人とそれになびく人の両方が必要だし、大きな集団だと、なびいてるだけなのに自分は人より少し賢いと自負している中途半端な人たちも構成上必要なのかもしれないです。
でも、なまじ大学を出て知識があるために、出回っている情報を鵜呑みにしてさも自分の意見であるかのように振り回す人たちはちょっと危ういように思いますがどうでしょう。いきなりソクラテスですが「無知の知」というか、自分はちゃんと知らないということをわきまえることも大事なように思います。

今の若い人たちの中には、ものごとを深く考え慎重に動ける人たちが一定数いるように私には見えていて、私たちの世代とは変わってきているように思います。知識人がリーダーシップをとり大衆がそれに従うという世の中のあり方そのものがうまく作用しなくなって、新しい方向性を模索しているのかもしれないです。