私の勉強観について考えてみる(2)

今、関西地方に住んでいるのですが、土地柄として、茶道のような細やかな気配りや品のよさが重視されるように感じます。25年も住んでいるのですからもう慣れなければと思いつつ、本気でその世界にはいっていくことができず今に至っています。

そのような風土では、学習の中にもある種「型」を修めることや振る舞いを身につけることが重視されてきた経緯があるのかもしれないと感じることがあります。ひがみかもしれませんが。

私はある意味野生児のように、好きなように学んできたかもしれません。
親には、勉強しなさいと言われなかったばかりか、女の子は勉強しすぎてはいけないとまで言われていました。

私の周りにいた人で唯一教養がありそうな感じの人は、隣のキリスト教の教会の牧師先生でした。今思い起こすとこの人に出会ったことが私の人生を大きく左右したかもしれません。
あとでわかったことですが、教会の日曜学校に信者の子ども以外を受けいれるかどうかは信者の間で意見が分かれることのようです。私はそんなことも知らず堂々と日曜学校に通い続け、高校生になってからは礼拝のオルガン奏者の奉仕を喜んでやっていました。
教団の青年キャンプにも数回参加し、信仰について考えるワークなどにも参加していました。洗礼を受ける決意さえすれば、クリスチャンになるという段階まで行ったと思います。

でも、私は、洗礼を受けませんでした。

クリスチャンの方々は柔和な性格の方が多くあたたかく接してくださるのですが、信者でない人たちのことや、他の宗教の教えなどについては、あまりよく言わないことがよくありました。私にとっては、お盆やお彼岸などの先祖供養や、初詣、七五三なども大事な家族との行事です。迷信だと片付けてしまうのは納得できないことでした。
ちょうどその頃、イランとイラクが戦争を始め、イスラム教の宗派の違いが戦争の原因の一端だと報じられました。宗教が違うことでいがみ合い、殺しあうというのはどういうことなのだと、私は高校生なりの頭で真剣に考えました。

もし、私が信じている神が唯一の神であり、この世界をすべて掌握しているのだとすれば、異教徒も世界の一部なのだから、彼らも掌握しているのでなければおかしい。異教徒には異教徒の神があり、自分たちには自分たちの神がいて、どちらが正しいかという論争をしているのだとすれば、それは人間の世界で起こっているレベルの低い争いにすぎないと考えれないだろうか。世界じゅうの宗教が神と崇めているものの正体は、つきつめれば同じもので、それをどんな風に捉え表現するかは人間の文化に属するもと考えられないだろうか。。。

私は神の実在を信じるけれど、どの宗教にも属しないことを選びました。
実際はもっといろいろな紆余曲折がありますがざっとこういう経緯です。

教会に行っていなければこういう哲学っぽい悩みは持たずに高校時代を終わっていたかもしれません。悩みと書きましたが、考えている間は楽しかったように思います。