私の勉強観について考えてみる(3)

たとえばある山に登るとします。

山の頂点に立つことそのものが目的なら、歩いて登ろうが乗り物を使おうが、その目的は達成できますよね。
乗り物を使うほうが楽で速いかもしれません。
でも、山登りを楽しむ人は敢えて歩いて登っていますよね。山の空気のにおいや音や、踏みしめる足の感触を味わい、少しずつ変わって行く景色を感じ、地球の大きさと交信しているような深い感慨を得る素敵な体験です。日に焼け、筋力がつき、ストレスから開放されリラックスできる効能もあります。体力をつけることを主目的として山に登る人もいるはずです。

そうやって歩いて山に登ることをしっかり体得できた人は、いろんな山に登ることができるし、また災害時などに必要に迫られて荷物を持って坂道を歩くことがあっても喜んで人の役に立つことができるだろうと思います。
でも、乗り物を使って山に登った人は、次の山にも乗り物を使わなければ登ることができません。

勉強も似たところがあると思うのです。

自分で教科書の内容をまとめてノートをつくる勉強を、私は中2ぐらいまで楽しんでいました。テキストを読み込み重要なポイントを探し出し、単元の全体像が自分なりにつかめなければわかりやすいノートは作れません。そこに「分析」と「俯瞰」のプロセスがしっかり含まれていたと思います。
参考書や問題集を使うというと、重要ポイントや単元のねらいなどがすでに書かれていることが多く、一番脳みそを鍛える部分を先取りされてこれは勉強にならないんじゃないかと私は思ってきました。
でも、おおかたの人は私のような考えではなかったらしい、と、やっと気がついてきました。
知識を覚えこみ、試験でたくさん正答できるようになることが勉強であり、そのためには参考書や問題集を使って効率を上げるのは理にかなっているという考えが一般的なようです。

そういう私も、社会人になってから受けた英検や心理学検定などの試験対策には公式問題集などを好んで使ってきましたし、便利だとは思います。
でも、子どもに勉強のしかたを身につけさせるためにはむしろ害になることもあると思っています。何が重要かを自分で探したり、物事の全体像を自分でイメージする技術は、少しずつ段階的に身につけていく必要があるし長い期間を必要とします。身についた力は応用がきくので、必要な知識は自分で取り入れることができ、何歳になっても学び続けることができます。

私が考えるようなことは、他の人も当然考えているとこれまで思ってきましたが、どうも違うらしいです。
違うのだと考えると合点がいきます。
長い間違和感を感じながら生きてきたし子育てしてきました。
子どもの不登校の原因のひとつだったかもしれません。
でも、みんなと違うからといって卑屈になる必要はないかもしれないと思い始めています。もっと自分の考えに自信を持っていいのではないかと。
こうやって文章に書いて発表することですっきり気分が晴れたように思います。