要望と政策の距離感、共感と賛成の距離感

参議院の選挙が終わりました。

選挙公報を眺めているとさまざまな「公約」が並んでいますが、いつもながらかなり荒唐無稽なテーマを掲げている候補者があります。
それをどうやって実現するのか、実現したときのデメリットが検証され、それを乗り越える覚悟ができているのか、財源はどう確保するのか、日程はどうか、といったプランがあるとは到底思えないようなことです。おそらく、政治にはこうあってほしい、こうだったらいいなという希望があって、その素直な気持ちをそのまま表現したのだろうと思われます。

国民のひとりとして、こういうことがあったらいいのにな〜という思いがあるのなら、それは 国政に対する要望 なんだろうと思います。

常識的に考えて、要望が政策として実現するためにはかなり実務的な手続きが必要で、全体的なバランスを考えた慎重な判断が必要です。うちの中のことを考えても、「家を買いたい」という希望と「家を買う」という実行の間には、乗り越えるべきハードルがいくつもありますよね。他に資金が必要な重要なことがたくさんあるのに「家があったらいいな〜」というだけで無計画に買ってしまう人がいたら、ちょっと大丈夫かな、と、心配になります。

それに対して、ほとんど段取りがついて実現が近づいている段階の政策案も「公約」の中には含まれています。こちらは、あまりテクニカルなことをこと細かに有権者に訴えても通りにくいので、簡略化し美しい言葉で飾って伝えられてきます。
本音をうまくカモフラージュし、こういうことがあったらいいのにな〜という国民の期待にマッチするような言葉にすりかえられていると思って差し支えないでしょう。

どちらの場合も、選挙公約という形をとったときは「○○があったらいいのにな〜」に訴える形をとります。

若いときは、この違いがあまり見えていませんでした。立候補するのはその道の専門家なのですから、公約として掲げる以上実現可能性についての根拠があり、反対するひとたちにどう反論していくかという戦略があるのだと勝手に想像していました。さまざまな「あったらいいね」に共感できるかで判断していたかもしれません。

でも、イギリスの先日の国民投票やフィリピン、アメリカの大統領選挙を見ていると、なんの戦略もない夢物語のほうがインパクトがあり、人々の心を掴んでいくように思えてきました。民主主義という政治の形を選んだ以上ある程度はやむをえないとしても、一定数の良識を持った有権者がきちんと判断する必要があるだろうと思うし、それを期待される層というのは、おそらく自分を含めた、大学を出ていたり、ある程度年齢を重ねたりした人たちなのだろうと思います。

若いときはいいとしても、ある年齢になったら、公約に掲げられている項目が、単なる要望の反映なのか、複雑な政策を簡略しソフトに表現したものなのか、区別できるようになるのが望ましいのだろうと思います。とくに、大政党は大事な争点は隠す傾向があるので、裏を読む力も必要かもしれません。公約のそのような分析がある程度客観的な視点で行われた上で、政策を立て実行する人の立場に立った建設的な議論が行われて初めて、民主主義と言えるだろうと思います。

建設的な議論とは何かという話はまた別の機会に考えるとして、

単なる要望と具体的な政策との距離感、奥行きといったらいいでしょうか。そういう立体感を感じられる感性をもって、自分はその意見にぼんやりと共感し実現を期待するだけなのか、冷静な判断力をもって賛同し、必要とあらば実現に協力するだけの熱意をもつのか、といったスタンスの違いを自覚できる人間になっていきたいし、そういう人が増えていって欲しいと思います。