私なりの首尾一貫した世界

ひとつ前の記事で「自分が未熟なのか相手が無知なのか」と書きました。

社会心理学を勉強したとき確かこういうのがあったと思います。人は他人と違うところがあると優劣として感じやすい。人は楽観的にできているので、自分の考えが優れていて相手が劣っているのだと考えやすい傾向にある。

本当はただの違いで、優劣がない場合もあるのですが、優劣をつけて考えたくなるんですよね。

私も最初のうちは夫の家族が変な人たちなのだと考えていました。自分の感じ方の方が普通だと。でも、だんだんわからなくなってきて、気がつくと、強い劣等感にとらわれてしまっていたように思います。

劣等感を持つようになると、他人と違うところが皆、自分の劣っている点に見えてくるようになりました。こっちの方が正しいのじゃないかと思っても口に出す前に飲み込んでしまうようにもなりました。他人の言うとおりにしていると楽だと思うようにもなりました。
黙って聞いていると勉強になることもたくさんありました。世の中にはたくさんの考えがあり、たくさんの文脈があるのだということを知りました。そしてますます、いろんな文脈のカオスの中に投げ込まれたような状態になっていったように思います。


いろんな考えを理解するにしても、自分の軸足が必要だったのだと今は思うことができます。
違う考えの人と出会っても、言うことをきくか、こちらの言い分を通すかという支配ー被支配の関係ではなくて、お互い理解し合って双方納得できる新しい考えを見つけ出すような対等な関係作りができていたら、夫の家族と暮らすこともずっと楽だったのだろうと思います。

これも、ちょっと前までだったら、他の人ならできることなのに私はできなかった、私のスキルが足りなかったと考えてしまっていましたが、今はそうは思いません。
私はかなり難易度の高いケースにつまづいたのであって、こんな苦労はせずにすんでいる人もたくさんいます。そんな人の住んでいる世界はもっと単純で、自分と違う考えの人は「変な人」で済ますことができて、困難が降りかかっても、相手の方が「困った人」だと考えて対処することができるのです。

そんな人は、羨ましいほど健康です。
でも、そんな人には私が住んでいるような複雑な世界を理解することはできないみたいです。

こういう理解も私なりの首尾一貫した世界の一部になっていきます。
これでいい、これでいいんだと思います。