発達障害と気分障害と複雑性PTSDが同じフィールドで語られる日

お気づきのように、こちらのブログは発達障害をメインテーマとはしていません。
不登校を経験した息子は成人しましたし、彼についての詳細をここに書くことは避けなければならないでしょう。
私についても、自身の診断を気分変調性障害とし、それからの脱却をめざしてボディワークなどの勉強をし、カウンセリングを学び、それなりの成果をあげてきました。最近になって橋本病がわかり、気分障害と身体の変調、とくに神経系、免疫系、ホルモン系の変調との関係について論を進めていこうと、だいたいの方向性を決めていたところでした。
一つ前に紹介した本は、以前書いていたブログのフォロー程度のつもりで選んだのですが、もう一冊読んだところで、大変なことに気づいてしまいました。

子と親の臨床 そだちの臨床2 (こころの科学叢書)『子と親の臨床』(杉山登志郎、日本評論社2016年)。トラウマだの、虐待だの、DVだの非行だの、荒っぽい世界を想像するような文言が嫌というほど出てくる本です。杉山は第4の発達障害として被虐待児の脳変化を報告した時期があり、当時は被虐待児とそうではない発達障害を区別していたと考えられるのですが、今回は、違いました。発達凸凹と表現する不適応のない形の発達障害を含め、ASDの広範囲に渡って、なんらかの継続的な心的外傷体験が関係しており、気分障害との関連性が認められるというのです。ASDの子どもの親に有意に気分障害があり、その奥に複雑性PTSDがあり、その起源にその前の代からの子育て不全が見える。ここでいう虐待には「教育的虐待」も含まれます。「本人の意思や能力を無視し、体罰や激しい叱責、脅しなどを伴って勉強を強いること」を言うそうですが、いかがでしょう。ちょっと待って!という声もたくさんあるのではないでしょうか。
杉山は近年EMDRでトラウマ処理を行う医師として全国的に有名になり、実際そのような例が多く集まっているのかもしれないのですが、私の知る限りでも、全く違うタイプのASD親子もあるような気がします。ただし、生まれつきのASD的な性質が強い場合、特に感覚が鋭敏な赤ちゃんの場合、普通のケアが子どもにとっては迫害的となってしまうこともありうるので、そこまで含めれば、脳に与えるダメージは同じとも言えるのかもしれません。

他の家のうちのことは、なかなかわかりませんから、自分の家がどのくらい普通なのか、どのくらい偏っているのかつかみどころがありません。結婚して相手の家のありようが違うのに驚くのはたいていの人が経験していると思いますが、それでも2つの比較だけでは全体像はわかりません。あとは映画やドラマや小説や漫画と比較するぐらいのものです。
私について考えてみると、「虐待」ではないのだけれど、私の母になんらかの子育ての混乱があったのは確かだと思われます。杉山の説に従うと、母の混乱は私の気分障害に影響を与えているということになります。そして私の気分障害は、息子の発達に影響を与えたということになります。

母自身のことを思うと、戦時中から戦後のモノ不足の時代に極限の我慢を強いられた自分の幼少期と全く違う豊かな時代の子育てに面食らうことが多かったのだろうと思い当たります。あれが欲しいこれをしたいと自己主張する自分の子どもたちを見ると、自分の心の傷が痛んだのかもしれません。母によって強く封じられた自己主張を取り戻すために、私自身苦労してきたという思いがありますが、母は母で、私以上に自己主張が下手で、人間関係には大いに苦労しています。
大人になるまで、いや大人になってからもかなり長い間、それがどのくらい普通のレベルから偏っているのかがわかりませんでした。今はその偏りをある程度意識はしていますが、どのレベルなら普通なのかはよくわかりません。ドラマや映画に出てくるうまくできた家族は普通なのでしょうか、普通以上なのでしょうか、私には区別できません。

これも私自身の話を超えてしまうために書きづらい話なのですが、私は私の育った家についてはあまり自信がないのです。そのことが、私の今の症状や息子の不登校に影響しているかもしれないということは、ずっと昔から、おそらく、不登校が始まる前から思っていたことで、だからこそ、息子に発達障害というラベルを貼ってしまうことを恐れたし、「生まれか育ちか」にこだわった発達障害のブログを書いてきたのだといえるのです。

「虐待」という言葉は倫理的にいけないことという意味あいを含んでいますので、これを発達障害の原因論に使うのは適当ではないと思います。社会的な意味あいにおいて虐待とみなされるようなケースを含めて、なんらかの秩序の混乱が親子の関係性において起こっており、その混乱が世代間で連鎖していて、複雑性PTSDといわれる症状や、気分障害という状態や、発達障害と呼ばれる子どもや青年の状態に影響していると言う言い方ならどうでしょうか。私自身のケースは、これならしっくりいくような気がします。

間違ってはいけないのは、精神科領域の診断名は状態像につけられているのであり、ひとつの原因ではない可能性が高いということです。
周産期や遺伝子の原因を持った純粋に生まれつきのASDもあれば、遺伝的な脆弱性と環境要因が複雑に絡み合ったASDもあっていいというルールなので、素人にはわかりにくいですが、ここはしっかり押さえておかなければなりません。

原因がはっきりわかってくれば、ASD状態像はその結果でしかないので、焦点は原因のほうに移ってくるだろうと思います。問題はトラウマなのだと、この本はかなりこの言葉を連呼していますが、心の傷を持たない人間などいないし、それこそが個性を形作り人生を豊かにしているともいえるわけで、問題は傷がつくことそのものではないことにも注意が必要です。心の傷がいびつな記憶として残ってしまうこと、傷に対する健康的な処理がなされていかず、人格としての成熟がすすんでいかないこと、傷つかないような対処法を自分で学んでいくことできないこと、が問題なのです。

そういう話なら、私にも思い当たる節が大いにあります。

私は、自分の健康に関する取り組みについてはこのブログで書いていこうと思っていますが、自分の家族の現在や過去についてを晒すことは避けたいと思っています。
具体的な話は書けないですが、それを逆手に取れば、抽象的に書くことで、本質的に似ている状況の人たちになんらかの「共感」に似た感覚を届けることができるかもしれません。

気分障害と複雑性PTSDと発達障害を同じフィールドで語るというのは、これまでの常識からすれば画期的で、私は自分のケースに当てはめても納得できる話だと思いますが、これからまだまだ議論を呼んでいくことと思われます。またフォローしていきたいと思います。
私としては、この「子育てをめぐる混乱」の社会的起源にも興味がありますし、これまでどおり、気分障害と身体の病との関連についても調べていこうと思います。

なによりも、新しいことを知るたびに、自分自身が整理され、すっきりして、元気になっているような気がしているのが、私にとって大事なことです。