倫理と適応

倫理を語れるほど立派な人間ではないのですが、今日は少し書いてみます。塾で出会う子どもたちと接していて驚くのは、平気で嘘をついてしまう子の多さです。

宿題の答えを丸写ししてくる、珍奇な遅刻の理由を述べ立てる、どうなんでしょう、私たちが子どもの頃の大人たちだったら、顔を真っ赤にして叱る人もいたかもしれませんが、なんだか呆れてしまいます。講師としては、ひとりひとりの実力を考えて吟味した宿題を出しているつもりだし、その子を個別指導するために時間を割いて出勤し数十分前からスタンバイしているので、悲しさでいっぱいになります。その嘘が、私との信頼関係を踏みにじっていることなど子どもたちは全く意に介していません。

気になるのは、そんな傾向の強い子の方が、学校生活を謳歌しているように思えることです。ひとことでいえば、適応的に振舞えているということです。

適応的である、ということは、倫理的にレベルが高いということとはあまり関係がない、というかむしろ、多少人を押しのけたり、少々悪いことができたりする図太さはプラスに働くもの、と理解されているのではないでしょうか。でも、適応というのは、相手の環境に対して、ということですから、環境によって状況は異なってくると思います。極端な例が戦場のような場所で、生き残ることが至上となれば、倫理的に「いけない」ことをして適応する必要に迫られることになります。逆の極端な例は倫理的に高くなければ適応できない場所ということになりますが、本来は、宗教施設とならんで、学校というところもそういう場所であったのではないか、と、私は思います。学校では人格を磨くことも課題とされ、自分を尊重することと他人に配慮することのバランスを取るために葛藤を乗り越えることを教えている、と、理解していました。

現実はそうではなくて、学校とは他人を欺いても自分を守れる人間が勝ち残る場所であった、と気づいたのは、息子が現役の中学生だった頃ですが、親御さんの中にも、純粋な子どもたちに積極的に嘘をつくよう勧めている人もいて、驚いてしまいました。不適応になるぐらいなら、小さいうちから嘘で逃げることができる人間に育てたほうがいい、と、大真面目に考えているようでした。

企業内で何年も同じ不正が続いていたとニュースになりますが、こういう世の中ですから不思議はありません。子どものときから、社会に適応するというのは自分や他人を欺くことであると教えられているようなものですから、大人になって突然目覚めるというような話はないでしょう。

嘘をついてくる子どもたちもこころの底ではまっすぐな関係を望んでいるのだろうと、私自身はできるだけ誠実に接し。。。。というほど立派な人間ではないのですが、日々悩みつつ仕事をしています。