産みの親への強い思いはどこから来るのだろう

一つ前の記事で取り上げた『女が女になること』によると、母親が働いているか専業主婦かによって5歳時点での発達の差がみられなかったという研究があり、それが「三歳児神話」を否定する論拠となっているということでした(p.191)。

親子関係というのは、働いているからとか専業主婦だからとかそういう単純な切り分けで何か違いがでるというようなものじゃないのは、考えてみれば当たり前のことで、いくらでも反証できる実例がでてくるでしょう。アタッチメント理論が検証しているのは、ごく小さいときに作られた親子の愛着のパターン、養育者を無条件に信頼して身を預けることができる人間関係の基礎のことであって、もっと繊細な分析を必要とする話です。母親だろうと、他の養育者とだろうと、どんな関係性をつくりながらどんな時間を過ごしているかを議論すべきでしょう。

また、忘れてはならないのは、「働いている」というのがおおかた賃労働を意味するようになったのは最近のことで、ちょっと昔までは、子どもを持った母親は今よりずっと大変だった家事と家業を幅広くこなしながら子どもの面倒を見るのが当たり前だったということです。また、子守女中や乳母を雇う人がいたり、上のきょうだいがおんぶして子守したりなど、母親以外の人間によって育てることも昔から幅広く行われていました。

逆に不思議なのは、どういう育てられ方をしようと、私たちは「産みの母」との関係性を大人になっても引きずってしまうことです。

私の母は公務員で、産後1ヶ月ぐらいで職場復帰して、祖母が私の面倒をみながら授乳時間に職場に連れて行ったと聞いています。祖母との愛着関係は良好で、それは私の「発達」を支えたことは確かなのですが、大人になって思い出すのは祖母とのことではなく、母のことでした。母から言われた言葉のひとつひとつがリアルに思い出されて、苦しい思いをしたり悲しかったりしたこともあります。逆にじんわり暖かな気持ちになったり。祖母との思い出もあるけれど、それは学校行事の思い出などと同じレベルです。母の記憶は強烈に私の現在に入り込み、私の人生を支配してしまいます。母に対する思いは、子どものときから一貫して特別だったし、今も変わらないです。

少なくとも私にとってはそうなのですが、他の方はどうでしょうか。
この特別な思いが、いわゆるアダルトチルドレンなどの「外傷的育ち」と関係している部分であって、計測可能な身体的な発達や知能の発達とは別のような気がするのですがいかがでしょうか。アタッチメント理論が対象とする社会性の発達という部分ともズレがあるような気もします。母が働いていたかどうかとは直接関係ないけれど、それによって母がどういう精神状態でいたかということとは、関係があるかもしれません。

これについてはまた何か気がついたときに書いていきたいです。