神仏習合のイメージをつかむことで今の日本人の信仰が見えてくる

明治維新以前の神仏習合というのはどういうものだったのか、イメージをつかむためにこの本を読んでみました。

神も仏も大好きな日本人 (ちくま新書)『神も仏も大好きな日本人』(島田裕巳、ちくま新書2011年)この本によると、東京付近では廃仏毀釈運動はあまり強くなく、廃寺となった寺もほとんどなかったといいます。神仏分離は政策として全国一律に行われたけれど、廃仏毀釈のほうは地方によってかなり差があったということですよね。

寺の敷地に神社が建っている例として浅草寺が挙げられていました。別々の宗教法人になっているとはいえ、江戸時代の姿をほぼそのまま保っているとすれば、徹底的な寺壊しが行われた南九州の実態と比べあまりにも平和な姿です。

神社の敷地に神宮寺として寺が置かれることもあれば、寺院の敷地に鎮守神が祭られることもあったようです。どちらの形態も奈良時代ぐらいから始まり、平安時代以降に「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」として理論化され、日本の神は仏教の仏の化身とされ混淆したかたちの信仰になっていったといいます。そこに密教の神秘的な魅力や壮大な宇宙観が加わったとされ、神社の全体像を描いた「宮曼荼羅」には本地仏として如来や菩薩などが描かれて残っているのだそうです。

興味深かったのが伊勢神宮に関する記述でした。16世紀半ばから後半ごろとされる「伊勢神宮参詣曼荼羅」という絵図には、伊勢神宮の社殿とともに仏教の寺が描かれ、神職とともに僧侶や山伏も多数描かれています。この他に内宮と外宮を胎蔵界と金剛界に例えた資料も紹介されていました。境内に護摩炊きを行っていたと思われる施設もあり、一時期の伊勢神宮はかなり密教の影響を受けた姿をしていたようです。

その後伊勢神宮は内部からの変革で「伊勢神道」が作られ、仏教色が薄められていったようです。時期も鎌倉時代から江戸時代にかけてということですから、明治の廃仏毀釈だけが関係しているわけではないようですが、ある時期までは典型的な神仏習合の形態であったことは間違いないようです。

今の伊勢神宮にはまったく神仏習合の痕跡は残っていませんが、そういう時期もあったということを知ることは私たち日本人の宗教観にとって大事なことのような気がします。しかし神仏習合というありかたがタブーとして語られない傾向にあり、「現代の信仰が昔と変わらないと思い込まされている」(p.181)のが実情だといえます。

初詣や七五三は神社、葬式は寺、といった信仰のありかたを「無宗教」と言ってみたり、外国人に対して申し訳なさそうに日本人は宗教に節操がないと説明したりするのは心苦しいものです。でも、近代以前にあった日本独特の神仏習合を知り、それが明治の「近代化」によって改変されたことをきちんと説明できるようになれば何の問題もないのではないでしょうか。