4月に入りまして、いよいよ大学院本科生としてのスタートを切りました。
いい論文を書くぞ!と意気込んでいる時と、自分にどれほどのことができるだろうかと不安になる時とあって、波を繰り返しながら少しずつ進めています。
論を立てて文章を書けるようになってこれまで考えてきたことをまとめてみたいと思っています。そのためには苦労やすこしばかりの心の痛みにも耐えなければならないでしょう。
それに関して、最近気がついてきたのは、私はこれまでこころの底の深いところで
自分は幸せになってはいけない と考えてきたのではないかということです。
貪欲に自分の幸せを追求してはいけない とどこかで自分に縛りをかけていた。それはある種の罪の意識のようなもので、自分は幸せになる資格に欠けているというような感覚です。それがどこから来たものなのかはっきりはしないのですが、かなり小さいときからあったような気もします。
幸せになってもいいのではないか
そう考えてみたとき、つーっと涙が落ちていくのを感じていました。
自分が心の底からやりたいと思ったこと、目指した目標に向かってまっすぐに進むためには、少々辛いことにも耐えていく力が必要です。その力の源に、自分は幸せになってもいいと思えていることがあると思います。広い意味では自己肯定感ということになりますが、よく言われているような自分の能力についての肯定感とは別の次元のような気がしています。
いつの間にかとても臆病な生き方をしてきました。自分の学歴を低く見せるように気を使い、誰ともあまり親しくなりすぎないようにしてきたように思います。実際体調が悪くて人づきあいが鬱陶しかったのですが、気がつくと電話ひとつ掛けるのも勇気が必要なレベルになってしまっていました。
幸せになりたいと思えば、怖いもの、辛いものにも立ち向かわなければならないわけで、自分を否定してくるものを上手にかわすことや、必要ならば組み伏せることや、そういうスキルも身につけなければいけないわけで、そういうしっかりした心の芯のようなものがすっかり欠けていたように思います。
大学院に入ったらゼミがあります。自分が書いたものを複数の人の目にさらし突っ込まれ自分を鍛えていくわけでそれに耐えるのは当たり前のことなのですが、今はそれもとても恐ろしいと感じている自分がいて、逃げたくてしかたがない気分になるときもあります。
でも、年齢的に最後のチャンスだと思うし、やり遂げなければと思うのです。やり遂げたとき私はきっと幸せだと思うから。私は幸せになりたいと今こころから思うからです。
こんな風に自分のこころの状態を見つめることができるようになっているのは、もしかしたら例のCDブック(リンク貼ります前の記事)のおかげでないか、と思っています。じわじわとこころが柔らかくなり人と接するのが楽になってきているように思います。