気持ちに物語を載せると思いになり、思いを届けると思いやりになる

自分の気持ちがわかるようになる、という体験について最近書いています。楽しいとか嬉しいとか、悲しいとか悔しいとか、”感情”と呼んでいるものは、実は身体に起きている生体反応を拾って名前を付けているもの(諸説あります)で、同じような生体反応じたいは、言葉を持たない動物たちにもありますよね。自分の気持ちがわからない、という状態は、自分に起こっている生体反応をうまくモニターすることに困難がある、ということだったと、今になってはそう思えます。

”気持ち”や”感情”が自分にあって、その時々で変化していっていることに気づくと、周囲の人の”気持ち”や”感情”にも目を向けることができるのですが、そのときに私たち人間は”思い”を持つのだと気づきました。”思い”にはストーリー(ナラティブともいう)があります。料理を作るとき、「〇〇さんが喜んでくれると、嬉しいな」という思いがあったり、やりとりのあとで「私はとても傷ついて苦しい、〇〇さんは私に敵意を抱いているのだろうか」という思いがあったりします。”思い”には思考(認知)と感情の両方が含まれていて、そこから私たちは何らかの判断をして、次の行為が生まれていきます。

この”思い”のありかたには個人差があって、同じ体験をしても千差万別の反応があるといわれています(多数派にありがちなタイプというのはあると思いますが)。「あの人は私より優れていることをアピールしている(から私はつらい)」「あの人は私を頼もしいと思っている(から嬉しい)」など。自分の感じ方は、過去の体験を参考にしているので、実際の相手の状況とはズレていることも多いのですが、本人にとってはリアルに感じられてしまいます。これを、認知行動療法という心理療法では「自動思考」と呼んでいるようです。

「自動」とついているように、”思い”は意識の底から勝手に生まれてきます。”煩悩”とか”雑念”とか、日本人が昔からコントロールしようとしてきたもののこととほぼ同じと考えていいと私は思います。生まれてきた考えには、自分が世界を感じるときの癖が色濃く反映しており、この考えを捕まえて、もっと幅の広い考え方ができないか、と修正を試みるのが「認知行動療法」なのですが、おそらく、昔から、ひとびとは似たようなことをやって自分を磨いていたんじゃないかと想像しています。

私も少し練習してみたのですが、すごく、楽になってきています。

感情がうまく拾えなかったときは、もう、妄想みたいな世界観で世の中を渡ってきていたと思います。周りの人たちが一律に自分を慕ってくれていたり、自分を仲間だと思ってくれていたりする、と、思えていると楽なのですが、嫌がられている、蔑まれている、などと思えてしまうとしんどい。人と話すのは難しいと感じたし、お世辞を言ったり気配りをしたりすることができず、威張っていると言われて困ったりしました。

人と関わるというのは、どうも、全く違うことのようです。

どんなふうに言われたら相手が嬉しいと思うかを想像して初めて、相手を自然な感じで褒めることができるし、どんなふうにされたら悲しむかを想像できて初めて、自分が無礼な振る舞いをしていたことに気づくことができます。言葉や振る舞いが、”思い”を届け、相手がそれを受け取ってコミュニケーションは成立しているということのようです。

そこまで理解して初めて、”思い遣り”に遣唐使の遣という字が使われている意味が腑に落ちました。思いを、遣る、相手に届けるのだということです。私はこんな”思い”を持っているということが、言葉や態度として届けられ、相手はそれをリアルなものとして受け取り、嬉しいと感じることができる。それが「思いやり」なのだと。

「認知行動療法」は自習することができます。この本以外にもテキストが出ています。人は変われます。だいじょうぶ。