知識と意識

日本の反知性主義 (犀の教室)『日本の反知性主義』(内田樹編、晶文社2015)という本を読みました。反知性主義というのはアメリカ由来の言葉でもともとの意味というのがちゃんとあるものらしいのですが、この本に限ってはそれにとらわれず、反知性という言葉から連想するものを10人の方がそれぞれに書かれていてバラエティに富んだものになっていました。改めて「知性」ってなんだろうな、ということを考えていました。

モリー英語語源辞典(大修館書店)を引くと英語のintellectは(inel・・・の間を)+(lect選ぶ)で善悪の間から選択する力のこととありました。インテリジェントintelligentという単語で表す「知的な」という意味合いには知識というより判断力・分別という部分が多く含まれるようです。それに比べてwiseという単語は博識という意味が強くなり、cleverだとずる賢さ器用さのニュアンスが出てきます。
英語の使い分けに準じてintelligentを「知的」と置き換えた場合、これが物知りかどうか学歴が高いかどうかとは別な次元のことを言っているのだろうということはだいたい想像がつきます。確かにどのような場所にもそのような意味での「知性」を感じさせる人はいます。語る内容や行動だけではなく、身のこなしやたたずまいの中にも「知性」は感じられるように思いますがその正体が何なのかずばり言い当てるのはかなり難しいのではないでしょうか。

それを考えていくうえで強く印象に残ったのが、名越康文さんが対談の中で使われていた「知識と意識」という使い分けでした。知識は量として測れるけれど意識は量的に測れない。知識の裏側に輝きとしてある意識の広がりが、昔は渾然としていたけれど、今はとても乖離してしまっていると指摘されています。
量的ではないつまり質的なもので、深まっていったり広がっていったり段階的にレベルが上がっていくもの、それが「知性」に相当する部分だろうと思います。書物に学び、師を仰いで教えを受けることで知識と一緒に高めることができる意識のレベルのこと。禅の「悟り」のように、まだ到達していない人にはわからない広がりと深さを持った体験的な知。

そこが私にとってはずっと気になっていたテーマにつながっているようにも思いました。発達障害を語るうえではすっかり見失われていて違和感を感じていた部分でもあります。

こうやって考えてくると、この本『日本の反知性主義』で高名な方々が論じている「知性」がバラバラであるだけでなく、さまざまな成分がごちゃ混ぜになって非常に精度の悪いものに感じてきました。ひとつには日本語の「知」という言葉が持つ知識というニュアンスの強さもあると思いますし、インテリという和製英語の響きのニュアンスに引っ張られている部分もあるように思います。しかしそれ以上に、知識の奥にある意識の広がりや深さの存在感をひとりひとりが感じられていないこと、それが大切だと認識されていないことが、混乱の根本にあるように私には感じられます。

政治家の言動の知性を問題視するような言説もありましたが、政治家は国民の気に入るように振舞っているだけなので、彼らは私たちの鏡でしかないでしょう。私たちが知性を欠く存在だということなんだろうと思います。愚民化政策というのもよく出てくる話ですが、知性はどのようにして伸びるのかまた、どうしたら知性が抑え込まれるのか、だれかがちゃんとわかって操作しているのでしょうか。それこそある種の思考停止なんではないでしょうか。

ここで大事なのは、知識を深めても必ずしも知性が深まっていくわけではないということです。
私たちが生きる今の時代では、知識と知性が分離され、知識だけを取得し知性を伸ばさないことが当然のように行われているという事実です。それは誰がどのような経緯ではじめたことなのかは簡単にはわからないけれど、おそらく何本かの糸が絡みつき偶然も重なってこうなっているのだろうと思います。

この本では「反知性」の「反」についても論者のひとりひとりの捉えかたにばらつきがありました。英語の Anti- が意味するのは「反対する」ニュアンスなので、どちらかというと既成の知に刃向かっていく反骨精神のようなものに近いですが、それについて書いた方は少なくて、知性が欠如していることや、知性の働きがフリーズしている状態についての論考がありました。また、知的階級(インテリ)とそれ以外を分断する境界について述べているものもありました。

この本じたいは彼らがパネラーとなって社会全体の議論が深まることを目論んで出版されたものと受け取りました。さまざまな論考をまとめて読むことによって、私なりに「知性」についての考えが深まったのだから目論みは成功していると思います。
たくさんの人びととこの問題について考えていけたらと思います。