暴力の構造を掘り下げると咀嚼されない悲しみに行きつく

ニュースの話題が感染症から戦争に変わった感がある昨今ですが、ストレスフルな状況が続いていることには変わりないですね。

動物も何かをめぐって闘争を行うことはあるし、戦争には本能的な部分があるのだとは思うのですが、ヒトが行う戦争は際限なくエスカレートしていく点が特殊なように感じます。

戦争のことを「人類の不名誉な伝統」と書いたのが、森田ゆり。

体罰と戦争

体罰と戦争

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この本は表題に戦争と体罰を並べてあるのですが、中盤のかなりのページ数を割いて、暴力的な事件を起こした犯人の裁判記録を使った解説が続いています。

暴力とは相手を傷つけることであり、それによって自分のこころも痛む体験であるはずなのに、容赦なく暴力をふるってしまうときが、人にはあります。暴力事件を起こす人は自分とは違う変な人だと考えるのは楽だけれど、この本はそうは考えていないからこそ、暴力事件と戦争と体罰とを同列に扱っているのだと理解しました。

戦場に行けば、普通の人がたちまち人殺しになります。残念だけれど、それが現実。そして、体罰については、たまには必要なことがあると考える人もたくさんいます。原理的にいえば、戦争も体罰も殺人事件も、暴力としては同じ構造を内部に抱えているのだということをこの本は訴えていました。

この本では、暴力をふるう人に共通する心理を「怒りの仮面」というモデルで説明しています(63ページ)。暴力をふるうとき人は怒りを表出しているけれど、怒りの感情の仮面の裏に、恐れや不安、自信のなさ、悲しさ、寂しさ、悔しさ、絶望、見捨てられるという不安、喪失感などが、過去の傷つき体験によって蓄積されているという説明です。

現実の相手にいま傷ついたというよりはむしろ、過去の傷つきに刺激が加わったから怒りが出てくる。このようなタイプの怒りが、他者への攻撃行動に結びつくと説明されています。「抑圧」とか「解離」とか呼ばれてきたしくみによって感じないように閉じ込められた感情を、言葉にしてしっかり感じることで、怒りの爆発を止め傷つきから回復していくことができるプログラムについても述べられています。

こうやって見ていくと、自分自身の悲しみや不安をしっかり感じることができなくなっている人は世の中にたくさんいるし、他者のネガティブな気持ちを感じ取ることができない人もたくさんいることがわかります。いや、他者の気持ちを感じ取り思いやるということはそんなに簡単ではないということかもしれないです。

相手に怪我をさせたり酷い言葉を投げつけたりしなくても、人より優位に立つことが嬉しいと感じたり、自分と考えが伝わらないと感じると瞬間にイラっとしたり、毎日の中にある多くのことが、暴力と同じ構造の中にあるのではないでしょうか。

自分を感じる、抱くことができるようになれば、人類は変われるのでしょうか。支配と服従という繋がり方ではなく、もっと対話的に繋がっていくことができるでしょうか。戦争をなくしたいのであれば、暴力→傷つき→抑圧→怒り→暴力のサイクルから抜け出す必要があります。