「イヤと言ってもいいのよ」ってお母さんに言われたことありますか?

大学院なるものを修了して最近は論文も少し読めるようになってきました。今回はどうしてもこの論文について書きたいと思ったので紹介します。

「小学生の頃の養育者からの言葉がけが女子大生の自己制御機能の発達に与える影響」(森下正康・藤村あずさ)http://hdl.handle.net/11173/109 ※

女子大生346名に対する質問紙(アンケート)調査です。小学生の時に養育者(母親など世話をしてくれた人)からよくかけられた言葉についてと、今現在の頑張る力や自己制御力についての自己診断を聞いて、その関連について統計処理しています。

このアンケートの質問項目を見てからというもの、なんだか胸がぐるぐると落ち着かなくなっています。ひとことでいえば、ショックでした。

養育者からかけられた自己主張を促す言葉がけの例のリストには、こういうのが載っていました。

・自分の気持ちや考えを人に伝えることは大切なのよ

・嫌だと思ったら『嫌だ、やめて』と言ったらいいのよ

私は、こういうことを言われて育つ人がいるということを想像したことはありませんでした。研究の素材としてこれが使われているということは、いるんでしょう。この論文では言われたかどうかを点数化して多い方の人と少ない方の人を半数ずつになるように分けたとしか書かれていないので、どのぐらいの人が言われているのかはよくわからないのですが、まあ、分けられるぐらいに、言われたかどうかはばらついているということです。言われた人とあまり言われなかった人がいるということです。

研究の結果としては、言われたグループの方が「頑張る力」や「自己抑制力」が高いと言うことでした。その他にもいくつか結果がでていますから、知りたい人は本文をご覧になってください。

私がこの「イヤと言ってもいいのよ」というフレーズに引っかかってしまったのは、私自身がその正反対のことを言われてきたからであり、そこにちょっとしたトラウマというか心の中にしこりのようなものを抱えてきたからなんですよね。

親の言うことに反抗するな、言い訳をするな、口答えをするな、おばあちゃんに泣きついてはいけない、そう言われて一人で泣き続けた日のことが思い出されます。家の外に放り出されて、謝るように強要されました。今から思えば、あれは体罰だったけれど、いわゆる虐待とはちょっと違うかもしれません。私が祖母に甘やかされていると思った母が、厳しく「しつけよう」とした結果体罰に走ったのだと今は理解できるけれど、それでもあのときの悲しさや悔しさ、本当は自分にも言い分があるのに、それを言うことができなくて、自分を曲げて「ごめんなさい」と言って家に入れてもらおうとしたときの気分の悪さは、昨日のことのように思い出されてしまう。もう50年も経っているのに。

イヤだと誰かに伝えるということそのものが、罪悪として封印されてしまっているというか、自分の中で、あの日から成長を止めているというか。

「イヤと言ってもいいのよ、ってお母さんに言われて育つ人が世の中にはいる」

そのことを知ったことで、私が少しずつ変わりました。

意識的に、自分に向かって「イヤと言ってもいいのよ」ってやさしく語り掛けることをイメージしてみました。自分の中の傷ついた部分をやさしく撫でるように。自分がこれまでの人生で、何も自分で責任を持って決めていないことに気づいてきました。自分の人生は誰かの言いなりになることで運命づけられているという態度で生きてきたと思います。でも、嫌と言っていいとなれば、自分で人生を切り開くことができるじゃないですか。自分の性格を含めて、自分で努力して状況を変えていくことは、これじゃ嫌だという強い思いから出ているんだと思うのです。他者に対して嫌と言うことも、相手を立てながら言えるように自分で考えて上手になっていくはずです。

このことを考えると、胸のあたりがむずむずと妙な感じになります。でも、人と接することがだんだん楽になってくるのが明らかにわかるのです。嫌と言ってもいい、相手の気持ちを傷つけないように言い方を工夫してきちんと伝えた方がいい。これまでは嫌と言えずにのらりくらりと逃げ回っていると嫌なことを引き受けなければならなかったり、逃げている後ろめたさで人間関係を狭めてしまったりそんなことの繰り返しでした。

そして気づくのは、母も私とよく似たようなことばかりしている、人間関係が苦手な人だということです。

連鎖しているのは虐待とかトラウマとかというより、本質は「嫌と言えない」なんだと思います。

※京都女子大学発達教育学部紀要第09号(2013-02-01)