言葉のはじまりは人類独特の論理の誤りから?

音を聞いたらドレミが出てくる、というのは、音の高さに「なまえ」がついているということです。それは、私たちが特定の色調に「なまえ」をつけていたり、特定の事象に「なまえ」をつけていたりすることと同じです。つまり、絶対音感と呼んでいるものの正体は音感に関係することというよりむしろ、言語に関係することだということです。音の高さを言語に変換する回路を持っている人とそうでない人がいるということになると思います。言語を習得する幼児期に訓練することで身につくというのも納得がいきます。

人類はものごとを概念づけてそれに単語を当てはめてことばにする能力を持っています。
言葉はどうやって進化してきたのか、それを鳥の歌を研究することで解明しようとしている研究者の方の本を読みました。
言葉の誕生を科学する (河出ブックス)『言葉の誕生を科学する』(小川洋子岡ノ谷一夫、河出ブックス2011年)では、言語は歌から派生してきたという仮説をもとに、言葉のはじまりを解説しています。作家の小川洋子さんとの対談形式で読みやすい本です。この本によると、言葉が成立するためには、論理的な間違いが起こる必要があるというんですね。ここが面白いと思いました。
 水の流れを指して「水」と教える。そうすると私たちは言葉としての「水」と実物の水の流れを等価とみなします。でも、これは論理的にはおかしいというのです。aならばb から bならばa を導き出すことはできないからです。あるシンボルとある感覚が同時にあったとして、次に同じ感覚があったときに以前記憶したシンボルにつながっていくためには、ある種の論理の錯誤が必要になるというわけです。サルなどの動物に実験しても彼らの方が正しい推論をしていて、その結果彼らは言葉を使わないのだといいます(p.84)。

「テロリストは○○人だった」から「○○人はテロリストだ」に飛躍してしまうという現象も同じ類の錯誤という話も出てきました。以前わたしが自閉症スペクトラムについてブログを書いていたときも、発達障害の人にこういう傾向がある、ということを、こういう傾向がある人は発達障害である、と読みかえてしまう人がとても多いという現象に気がついていました。これも同類だと思います。
  AならばB が成立するからといって、 BならばAは成立するとは限らない
たぶん、私がこう書いても、なんのことやらわからない読者もそれなりにいると思います。
  うちのお父さんは男だ → 男はうちのお父さんだ となりますか?ということなのです。

そこに実際に存在しているもの と なんらかのシンボル を等価とみなすことで、私たちはさまざまなものごとをカテゴリーに分け象徴することができるのですが、それって実はヘンなことだという話です。人類全体がヘンなのだから誰も気がつかないというのはブラックユーモアみたいで興味深いですよね。

私たちは視覚で捉えた特定の線の形に「なまえ」をつけ、耳で聞こえる発音と結び付けて覚えています。文字がそうですよね。「絶対音感」と呼ばれているものは、その特定の線の形(文字)が音の高さに入れ替わっただけのものだろうと思います。以前放送大学の『音楽・情報・脳』という講義で、絶対音感がある人の脳では音楽を聴いても左脳で処理されるというような話が出てきたことがありますが、「なまえ」をつけてしまった以上そういう脳の動きをするのは当たり前のようにも思います。

しかし、サルは間違えない論理を人間が間違ってしまうというのだったら、「正しい論理」は人類を越えて普遍的に存在するというのが大前提になりますが、それを考えているのは人間の頭脳なんですよね。なんだかこんがらがってきましたが、今日はこの辺で。