音感の個人差がものの考え方の個人差に関係するだろうか

私はある偶然から、ヤマハ音楽教室に3歳半で通い始め、小学校4年生まで在籍しました。
ものごころついたときにはすでにメロディーをドレミで歌っていましたから、これを特別な「音感」と呼ぶことには抵抗があったのですが、世間で「絶対音感」が話題になるたびに関心をもってきました。

ベストセラーになった『絶対音感』(最相葉月1998)での説明では、自分の音感が「絶対音感」なのかどうかの判別がつかずもやもやとしたものが残りました。今回、別な本を見つけたので読んでみました。結論から言うと、この方の分類によっても、私の音感はそうポピュラーなタイプではないのかもしれないです。

絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿 (DOJIN選書)絶対音感神話 科学で解き明かすほんとうの姿』(宮崎謙一、化学同人2014)この本によると、何の脈絡も無くポンと出された音の音名を答えられるのが絶対音感で、基準音を覚えていてそれに関連付けて相対的な音の高さで音名を答えられるのは相対音感。この二つは、テストをすると音名を答えるスピードが違うので区別できるといいます。
絶対音感は訓練によってつくと考えられると述べる一方で、絶対音感の方が原始的で、潜在的には誰にでもあるという話もでてきます。

絶対音感を持つ人はヨーロッパには少ないが、東アジアではかなり多く、日本のある大学で音楽専攻学生の4割以上というデータもでていました(p.108 )。きわめてまれと言われているわりに、最相さんが取材された日本人にたくさん絶対音感者がいたのは納得がいきます。
音楽の素養と絶対音感を直接結びつけるのは「神話」であって、音程の差を聞き分ける相対音感の方が大切だというのがこの本の主張で、絶対音感があるために相対音感を育てることができず音楽的な才能が伸びない場合もあるといいます。簡単なメロディーを移調するだけで絶対音感のある人が混乱してしまう例などが挙げてありました。

私は、この本の分類によると「不正確な絶対音感」の部類に入ると思います。CDなどで聴いた音はドレミの階名で聞こえていますが、半音または一音ずれた調に聞こえていることが多いです。この本にあるような「絶対音感者の混乱」は起きていません。移調奏の訓練を受けたからだろうと思います。移調奏というのは、同じメロディを別な調に変えて演奏することで、その中で、相対的な音の高さを聴き取ることや、コードネームを使った伴奏法などを学びました。聞いただけのメロディーを、即座にさまざまな調でピアノで弾くこともできます。相対音感もそれなりにあるということになると思います。この本にも、状況に応じて相対音感に切り替えられる絶対音感者という表現がでてきますが、それに近いかもしれません。

私は自分が特殊だという認識をもったことはあまりありませんでした。周りにもピアノを習っている人や音大に行った人などがいますが、当然自分と同じようにできるのだと考えていました。しかし案外できないことが多く、不思議に思っていました。
そういう意味では、謎が解けたということです。私と同じようなタイプの人は少ないらしいということ。少なくとも日本人に限ってはということです。

西洋では、音楽が数学や哲学と結び付けられ、調和や対称性を具現したものとみなされるといわれますが、そのことを理解しようとすれば相対的な音程の感覚を使わなければならないように思います。この本によると日本人には絶対音感はあっても相対的な音の感覚が弱い人が多いらしいのですが、それでは西洋音楽の本質的な部分を何も学んでいないのともいえます。もしかしたらその辺が、日本のものの教え方の特徴と関連しているのではないでしょうか。
私は同じメロディがどの調でも奏でられるのですが、これは、多角的なものの見方につながっているようにも思います。移調しているという感覚は絶対音を基準にしているので、絶対音感と相対音感の両方を使っています。
同じ和音が、別な調から見れば違う働きをしていたり、同じ音の配列進行が、別な調から見れば全く違う響きに聞こえてきたりします。人間関係や社会を見つめるときも、私はこの発想を使っているように思うのです。
音楽が哲学に通じるというのは、私の中ではそういう風に理解されているのですが、いかがでしょうか。

私の音感が特殊だとすれば、私の発想のやりかたそのものが特殊だということになります。
特殊という言い方をしましたが、正確に言えば、特殊と普通があるわけじゃなくて、個人差があるということです。音感の個人差はものの考え方の個人差に結びついているのかもしれません。仮説としては面白いのではないかと思います。