内なる攻撃性という問題

誰かのために祈るやり方が失われた気がする、と、書きました。

この表現はヘンだと自分でも思います。なんでこんな表現になるのか考えてみました。

それで思い出したのが、「迫害するもののために祈る」という言葉です。
私は子どものとき、近所のキリスト教の教会にずっと通っていました。
「いやなことをされたときは、その相手のことを気の毒に思い、その人のために祈る」
そのような教えだったと記憶しています。

私が「誰かのために祈る」とき、嫌なことをされてもそれを抑圧していたのだろうと思い至りました。

嫌なことをされたら、普通の人は悔しいとか辛いとか感じるし、相手にちょっぴり仕返しをしてみたり、それができなければ何らかの発散の手段を講じるし、どこかでそのマイナスの気分の埋め合わせをしようとするものなのでしょう。
でも、私はそのようなやり方を知りませんでした。
教会の教えを学ぶよりずっと前から、嫌なことはただじっと我慢するというスタイルがあったように思います。それが教えとつながり、嫌な思いを押し込めて、それを相手のために祈るという言葉に置き換えていたのでしょう。
実際は祈るところまではいかず、ただ、嫌なことをされたり、嫌な言葉をかけられても、ニヤニヤしていました。それを「こころが広い」とか「優しい」と勘違いされることもあったかもしれません。

ただただ、私の内なる攻撃性が抑圧され、外に表現されてこなかっただけだったのだと思います。
ここでの本当のキーワードは「攻撃性」なのでしょう。そこに私の攻撃性は閉じ込められてしまっています。誰かのために「祈る」ときというのは、その誰かが今のままでは嫌だと感じているときです。その人が別な風に変わって欲しいという思いをぐっと力をこめていました。

攻撃性がすっかり抑圧され、無意識に押し込まれ、それを「他人のために祈る」としか表現できなくなっていたというのが、私の姿だったろうと思います。

ロルフィングで身体にアプローチすることで、私の中の内なる攻撃性が活性化しつつあるのを感じます。嫌だと感じている気持ちが意識にしっかりのぼることでこころは痛みを感じますしコントロールしにくい部分もあります。これと付き合えるようになってきたら、私のありかたは変わってしまうだろうとも思います。

これまでのやりかたを手放すのは、怖いです。
でも、やってみようと思います。

嫌なことを嫌なこととして受け止め、その先、自己主張するか、ひっこめるか、ユーモアで返すか、忘れて気分転換を図るか、自分で決断していこうとすれば、使う身体の場所は違います。おそらくもっとおなかの中心、丹田といわれる部分に近いところになるように感じます。

内なる攻撃性を抑圧してしまったためにしんどい思いをしている人は、たくさんいるように思います。抑圧してしまうと自分は何も感じませんが、人の痛みもわかりにくくなります。
抑圧の結果どのような反応をするようになっているかは、人によって違うかもしれません。
まずは自分の問題なのですが、同時に、私だけの問題でもないように思いました。