見えないものへの信仰と問題解決力

前例のない問いを解くということ。

ここで考えているのは、災害などの危機を乗り切ったり、社会の矛盾に風穴を開けたり、といった大きな仕事のことです。その基礎としては、身近な生活の中で、壊れた道具を上手に修理したり、難しくなった人間関係を立て直したり、必要なものをありあわせの材料を組み合わせて創作したりといった工夫が日常の中で行われていることが大事なのではないか。それを見て子どもが育つことで、社会全体の問題解決力が高まるのではないかということです。

一つ前の記事ではそういうことを書きたかったのですが、いまひとつ上手く書けてなかったように思います。

また、なぜそう考えるのか、上手に説明できていない気がしますので、もう少し考えてみることにします。

「分析」と「俯瞰」ということを書きましたが、これだけでは足りない気がします。問題集だけ解いていたのでは、またはゲームだけやっていたのでは、答えは隠してあるだけで用意されているのはわかっています。前例を分析して傾向をつかみ最善の対策を選ぶ、というのでも「分析」と「俯瞰」には違いないからです。

足りないのは、確信のようなものではないかという気がします。

もっと深く、もっと根本的に、ものごとを分析しつくし、今まで誰も発表したことがないけれどおそらく現状に一番ふさわしい答えを見つける。そのためには「答えは必ずあるはず」という確信。
いわゆる「神様だけが知っている」という確信です。
これまでの人間はまだ知らないのだから、その答えは人間が知りうる世界の外にあるわけです。
人間が知りうる世界の外を信じられるかということです。

そこまでつきつめて考えていないし、信仰など持ったことはないと言われてしまうかもしれません。
でも、誰もやったことがないことをやり遂げる人を神と呼んだりする心情にはそういう意味合いが含まれているのだろうというのは想像できると思います。
私が気にしているのは、もっと日常のレベルでの、「信仰」です。
どんなささいなことでも、状況を分析して全体を俯瞰し、新しい答えを自分で見つけだしていくためには、見えないものへの信仰を必要としているように私には思えます。たくさん必要とするときと少ししか要らないときの差はあると思いますが。

個々の人間が知りうる世界には限界があり、その外には広大な未知の領域が広がっています。未知のものを見ることはできないし、見えないうちは、あるのか無いのかも判別することはできません。何か困ったことが起こって、それを解決しようと知恵を働かせ、何らかの工夫を凝らすとき、人は自分の限界を超えて、未知の領域に入っていくはずです。その答えが、他の人は既に知っていたことと良く似ていたとしても、その人にとっては新しい知恵であり、世界の広がりであるはずです。誰にも頼らず自分の力で、何か問題を解決するとき、そのような世界の広がりを経験しているのだろうと思うのです。意識には上らなくても、自分には見えていない外の世界を信じて、問題を解決しようとしているといえないでしょうか。

そうやって日常の中で力を養ってきたからこそ、本当に困った問題が起こってその危機から脱しようとしたとき、また、詳細を分析し全体を俯瞰して大きな問題があると感じたとき、よし、答えを必ず見つけてやろう、答えは必ずあるはずだと奮起することができるのだろうと思います。まだ知らない、見えない世界を信じる力が、深いところでそれを支えていると考えられないでしょうか。