私の勉強観について考えてみる(1)

「分析」と「俯瞰」とか、「見えないものへの信仰」とか、そういうことを私が書いていても、ピンとこない人もたくさんいるんじゃないかと心配しています。どうも、このあたりが、私が周囲に違和感を感じてきた部分に繋がっているような気配もします。

もしかしたら関係があるんじゃないかと思うので、私の生い立ちというか、小さい頃のことを少し書いてみたいと思います。

私の母は公務員で、当時の短い産休明けから祖母に面倒を見てもらって育ちました。きょうだいが下にいたこともあり、かなり大きくなるまで祖母の横で寝ていた記憶があります。
この祖母は大正生まれで読み書きは多少できましたが、新聞を読んだり手紙を流暢に書いたりということはできない人でした。昭和40年代の田舎ではそういう女性がいるのはそう珍しいことではなかったと思います。
祖母のもとでゆったりした時間が流れていたのを思い出します。お風呂は豆炭、こたつは練炭でしたし、振り子時計が止まるとねじを巻かなければなりませんでした。毎日、祖母が買い物かごを持って市場に行き、八百屋、魚屋、肉屋などを順番に回って買い物していました。
おもちゃ類は誕生日とクリスマスにひとつずつ買ってもらえることになっていましたが、あまり買ったおもちゃで遊んだ覚えがありません。木登りをしたり虫を取ったり、近所のお屋敷の庭を「探検」したりして過ごしました。室内にいるときはさまざまな工作をしました。茶の間のタンスの上に空き箱がたくさんとってあって、祖母に頼むと分けてもらえました。セロテープは子どもが贅沢に使うものではなかったので、お菓子の缶の封に使ってあるテープを祖母がぐるぐる巻きにしてしまっておいて、必要なときに出してきてくれました。

同じ年齢の友達の話によると、当時から「いやいやえん」とか「ぐりとぐら」などの童話の本も売られていたらしいですが、そんなハイカラな文化とは全く縁がありません。
クリスマスに買ってもらった「あかずきん」をボロボロになるまで何度もひとりで読んでいました。

と同時に、ヤマハ音楽教室に通っていたのですから、おそろしくアンバランスな話です。

かなり長い間、私は勉強することが純粋に楽しみでした。小学校低学年の頃は学校で勉強してきたことを祖母や妹に語り聞かせていたようです。高学年になってからは一日5ページ大学ノートを埋めてくるという宿題が毎日出ていたのですが、これにのめりこみました。テーマは自由です。今日は日本の山脈の名前を全部覚えようと思ったら、地図帳の地図を見ながら手描きで白地図をつくり、山脈の場所を書き入れ空欄を作って問題を作り、自分でそれを解くのです。ときどきは創作童話を書いたりもしました。とても楽しかったのを覚えています。中2までは参考書や問題集は使わず、教科書の内容を自分でまとめて自分で問題を作りそれを解くという勉強法でした。
虫取りや工作とおなじように、勉強の中には自由があり、工夫があり、達成感がありました。「分析」と「俯瞰」があり、「まだ見ぬ世界への信仰」がありました。もっと勉強したいと心から願い、高校に進みました。

受験指導として大量の問題集を強制されたとき、勉強はどんどん苦痛なものに変わっていきました。勉強がおいしい料理から配合飼料に変わったと当時から感じていました。皆が苦痛を感じているのだから十年も経てばもっといい勉強法が開発されるのではないかと思ったし、外国の優れた教育方法もいろいろ紹介されているのを知っていますが、なぜか配合飼料のような詰め込み教育はなくならずスタンダードとして定着してしまった感があります。私は田舎の高校からW大学に進学することができましたが、これは配合飼料のおかげなのかもしれません。でも、大学に入って講義のノートを取ったり論述式の試験を乗り切ったり、仕事に就いてそれに必要な勉強をしたりするのに役に立ったのは、自分の力で楽しみながら取り組んだ小学校高学年から中2ごろまでの勉強だと強く感じています。

自分にまだ見えていない新しい世界があることを強く信じ、それを見るために、今見えているものをよく観察し分析し、知りえたことを俯瞰する。そして初めて見えてくる新しい世界に感動し、その向こうにある新しい世界を探しに行く。勉強とはそういうものじゃないかと私は思うのです。

これとはまったく違った「勉強」観を持つ人たちもおられると思います。もしかしたら私の考えは恐ろしく偏っているのかもしれません。
書きながら考えてみたいと思います。次回に続きます。