謙虚と卑屈の違いは、本当の謙虚がわかるまでわからない

謙虚と卑屈が違うということは、頭ではわかっているつもりでした。

20代のころ、「好きな言葉は」と聞かれたら、謙虚と答えることにしていました。
目立ちすぎず、周りを立てることや、知識をひけらかさないこと、場を仕切らないこと、
そういうことが謙虚だと思っていました。
女性らしい美しい態度だという価値観もあったと思います。当時はまだ昭和です。

でも、いったん自分の卑屈さと向き合ったとき、自分が謙虚と思っていたものの中心は卑屈そのものだったのではないかという気がします。卑屈の上に何かが被さっていただけです。

若い頃、私は自分の能力にある程度自信がありました。人より優れていると自惚れていたからこそ、控えめであることが謙虚だという論理が成り立ったわけです。

その自信が大きく揺らいだのが、息子の不登校と、発達障害ということばのひびきでした。
自分は子育てに失敗したという挫折感とあいまって、「障害」という言葉に過剰に反応してしまったように思います。社会性において自分は他人より劣っているのだ、自分に難しいと思えることも、他人はやすやすとできてしまうのだ、と思い込むことで、どんどん卑屈になっていったように思います。

いちど劣等感を持つと、普通の人がどんどん理想化されていくんですよね。そういうことはよくあります。他人の気持ちが何でもわかる人なんてどこにもいないのですが、発達障害のことを書いた解説書を「字義通り」に読むと、完全な人間と不完全な人間がいるような錯覚に陥ってしまいます。すっかりその罠に陥ってしまっていました。

一時期、自分を「障害のある人」の枠の中に収めてしまおうとしていました。その方が楽だったからです。自尊感情という意味ではぼろぼろでした。

今、思い返すと、あんなに簡単にぼろぼろになってしまった背景には、自分が、他人と比較することでしか自尊心を保っていなかったことがあると思います。ゆるぎない自分への自信というものが確立していませんでした。その下地のもろさは、ごく小さい時期、幼児期とか小学生の頃の体験に由来しているように思います。


ほんとうの自信がある人にだけ、ほんとうの「謙虚」はわかるものなんでしょう。
私のように、卑屈と謙虚を混同している人も、それなりにたくさんいるのかもしれません。