結果主義が残したもの

1980年ごろといえば、大学入試に共通一次試験が導入された時期に一致します。私が行った高校では国公立大学に入った人数が重要でしたから、学校が率先して試験対策優先の授業に走っていった背景の一つには大学入試制度の問題もあるだろうと思います。
でも、単純にそれだけを原因とするのは当たっていないと思います。

ごまかし勉強とされた勉強法は、質より量、プロセスより結果を重視する考え方です。このような考え方は当時、社会全体に広がりつつあったものでした。新しい家電製品が売り出され、家事はどんどん楽になりました。自家用車に乗って楽に遠くまで出かけれらるようになりました。便利なものを利用して労力を使わないことは時代の最先端をいく素敵なことと見られていたように思います。
将来はもっと便利なものがどんどん発明されて、人間はとても楽に暮らせるようになるという言説があちこちにありました。子ども用の雑誌にも、眠っている間に暗記ができる装置が開発され、勉強をしなくて済むようになるかもしれないと書かれていたのを読んだ覚えがあります。

どんなやりかたをしても結果が全てだし、そのためには無駄を省くのが良いのだと、ほんとうに多くの人が信じていました。学校が率先してごまかし勉強を進めていったし、保護者もそれを歓迎したのは、そういう時代背景も考えなければならないだろうと思います。

その10年後ぐらいに、私は結婚して夫の両親と暮らし始めたのですが、そこでいちばん義父母と衝突したことが、さまざまなことについての「手抜き」についてでした。義父母にとっては、私が「効率的」「便利」と考えることのほとんどが「手抜き」と見えているようでした。彼らが大事にしているものが、人と人との絆だと気がつくのはずっとあとのことです。結果ではなくプロセスが大事。量ではなく質が大事。人は「まっとう」に生きることで信頼を築き、幸せに生きていくことができるのだから「手抜き」をして楽に走ろうとすれば必ずその報いがあるのだと、そう考えていたらしいのは、今はわかります。
若かった当時は、周囲の同年代の主婦と同じようなことができず辛いと思いましたが、今は宝物を受け継いだのかもしれないと思っています。

ごまかし勉強〈下〉ほんものの学力を求めて』の中では、ごまかし勉強は冷凍食品に例えられていました。出来たものを温めて並べるだけでは料理は上手にならないし、料理の本質を理解することも料理の楽しさを知ることも出来ませんから、たとえとしては良くできていると思いますが、実際の私たちの生活が本格的な料理をしない方向に向いていることを考えると、勉強法だけを「正統派」に戻していくのはそう簡単なことではない気がします。裁縫に至っては、家庭ではやらないのが当たり前みたいになってきました。ちょっとそこまで行くのにも、すぐ自動車を使ってしまう生活です。大人がそういう生活をしていて、子どもだけ昔のような勉強法をやらせようとしても、なかなか難しいだろうと思います。

量より質を求めたときに、「質」をわかるだけの力量が私たちにあるでしょうか。結果主義が残したのは「本物」と「ごまかし」の区別がつかず、「手抜き」を「効率」と勘違いするような判断力の弱さだったといえるかもしれません。だいたい私たちが学ぶのは、その判断力を養うためだったのだろうと今に至って気づきます。