病気はカルテの上ではなく、私の中で起こっている

思いがけず長く読んでくださっている方々からのコメントをいただき、嬉しく思います。言葉を通して流れてくる情緒の束が、以前の私にはうまく届かず過敏に反応していたこと、今ははっきりとその違いを感じられます。

感染症は急性の症状が治まったのちゆるやかに経過し、少しずつ良い方に向かっているように私には思えます。
いまはどこにも通院していないのですが、おそらくもう何も処置してもらうことはないだろうと思います。結局なんのウイルスだったのかはっきりしなかったのですが、熱が下がった時点で「これからは日にちぐすり」と言われているし、医師の力を借りないことに特に不安はありません。これまで研ぎ澄ませてきた自分の内側への感覚を使って、自然治癒力が的確に働くように食べ物を選び、働く量を調節し、生活を整えています。

私の中では、この感染症は、長い間溜め込んできた滞留物を排出するプロセスとして感じられています。身体の中に感じられる微妙な感覚は他人から見ればいわゆる不定愁訴というようなものに見えるかもしれません。おおかたの医師からみるとこういう感覚をしゃべる患者は面倒くさいらしいことが最近わかってきました。彼らは診察をするとなんらかの診断を下し薬を処方し保険診療を成り立たせる必要があるらしく、ことによってはとんでもない病名がつけられ、どうしてこれが要るの?と思うような薬を持って帰らされることがあります。

刑事ものの映画で使われている有名な台詞がありますね。「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」。この病気と取り組みながら思い出していました。病気は診断名として起こっているんじゃなくて、私の中の複雑な現実として起こっています。医師に見えているのは外から見た客観的な肉体でしかないし、中で起こっていることをリアルに感じているのは私じしんでしかなく、最終的に病気から身体を建て直しこれからも生存し続けていくことを選択するのは私でしかないということなんです。

人間はかならず死ぬのであり、そのときまで精一杯生きるしか道はありません。
そして、生きるというのは、周りにいる人たちと情緒をかわしていくことに他ならないのです。