愛はしばしば傷つける

信田さよ子の著作を2つ続けて読みました。この方は東京の都心でカウンセラーをされていて、特に団塊の世代の母親とその娘さんの組み合わせについて、母娘の難しさを論じられていました。

母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き  母・娘・祖母が共存するために

違う。違うんです。私の場合とは。

団塊の世代の母親は、自身が戦後の民主教育を受けつつ実社会では実力を発揮できなかったから、その思いを娘に託し、勉強やピアノなど頑張らせたりした。というようなストーリーが語られるのですが、ここが全く違う。

私の親は団塊の世代より少し年上で、戦争末期から戦後すぐの混乱の記憶を少しだけ持っている世代にあたります。都会と田舎の違いもあるのかな。

女の子は、勉強ができすぎてはいけない。と言われて育ちました。

私の周囲にも、背が高すぎてはいけないとか、運動して筋肉がつきすぎてはいけないとか、女だから目立ってはいけないとか、言われて育った人はたくさんいたように思います。だから、女なのに学校の成績が良すぎてはいけない、というメッセージは、その時代においてはおかしなことではなかったかもしれません。

今の価値観に照らし合わせば、親にそんなことを言われて育つのは辛いことですよね。

信田は、娘にとって重くてたまらない母親のタイプを6つぐらい挙げています(「母が重くてたまらないー墓守り娘の嘆き」春秋社2008年)が、その中に嫉妬する母というのがあって、まあ、そこに当てはまるかなとも思います。私がうまくいかないことがあると、あからさまに「ざまあみろ」と言われて育ちました。

結婚してからも、何か失敗すると、母の「ざまあみろ」という言葉が聞こえてくるような気がして辛かったのを思い出します。徐々にうつ状態に向かっていった時期です。

そうか、母は私を妬んでいたのか。そう考えたら、少し整理がつくけれど、なんだかやるせないなぁ。と思っていたところで、読んだのが、中野信子「シャーデンフロイデ」(幻冬舎新書2018年)

 

シャーデンフロイデというのは本の題名のごとく、自分より上位の何かを持っている人に対して抱く、その人の不幸を喜ぶ気持ちのことです。いわゆる「ざまあみろ」の気持ち。この本を読むまで、そういう気持ちを持つことは恥ずかしいことだし、それを表現してしまう私の母のような人は、特殊な性格の持ち主で、そのような母を持ったことも恥ずかしいことなのではないかと思っていました。

でも、この本を読むと、シャーデンフロイデは誰でも持っている感情であることがわかりました。それだけではなくて、体内のホルモンなどの働きから分析していくと、実は、私たち人間が、自分の属する社会を愛し、その秩序を保とうとする機能のひとつとして、このシャーデンフロイデがあるのだということがわかりました。社会を乱すものは制裁を受けて当たり前だという感覚、悪いことをした子は罰を受けて当たり前だと思う感覚、そして、愛する子どもに、良かれと思ってやっているさまざまな制約も全て、シャーデンフロイデの仲間だということになります。

我々が愛とか正義と呼んでいるもののほとんどがシャーデンフロイデ。

だから、愛や正義のための戦争というものが発生し、気が付けば多くの人が血を流すことになるんだな。謎が解けたという気分になりました。

私の母も当時は本気で、私のためにやって来たことなのかもしれないです。

それが私の母なりの、母の愛ということです。

そうなってくると、先ごろから気になっているメンタライゼーションという働きと、相手のためを思ってやっていると本人が思い込んでいる行動にはかなり開きがあるような気がしてきました。ここのところ、もう少しつっこんで考えてみたいと思います。それはまた別の機会に。