モードの切り替えと現代気質

ルビンの壷は平面に描かれたトリッキーな絵で、現実的なものではありません。
文脈ということをたとえるならもっと立体的なものです。円錐を上から見るとまる、横から見ると三角、といったこと似ているかもしれません。また、利害の対立のような場面では、同じものが裏返しから見ると間逆に見えるといったたとえに似ているかもしれません。
文脈というのは、いったんは別な風に見え矛盾するように見えていても、それは最終的には統合でき、同じものの見え方の違いであることを理解することができる性質のものだろうと思います。

幼稚園児がかりに、なかよくする場面と競争する場面をルビンの壷のように切り替えたとしても、いずれ大きくなるにつれ、この二つを立体的にとらえ、ライバルとも親密な関係をもてるようになってくるものなのだろうと思います。

ここで、ちょっと気がかりなのは、モードの切り替えという方略です。

パソコンのキー入力にはかなモードと英数字モードがあり、ボタン一つで全てのキー配列の意味づけが変わってしまいます。携帯電話やATMの端末、洗濯機に至るまで、モードが切り替わったとたん、同じ操作をしても意味が変わってしまうのですが、このようなことは、1980年代後半ぐらいまでは、ありませんでした。

マイクロコンピュータがまだ、一般家庭になかったからです。

私は1986〜1991年の間、アメリカ製のコンピュータソフトの操作方法を日本の企業の人たちに説明する仕事に就いていました。相手は大手メーカーの優秀な技術者の皆さんでしたが、モードということを説明するのにひと手間かかりました。モードという言葉じたいは数学の用語だそうで、いったん説明すれば理系の方には通じたと思いますが、一般の人たちにこれが普及していくのにはちょっと時間がかかったように思います。

しかし、1990年代にはいって、状況は一変しました。
ファミリーコンピュータ一世風靡して、子どもたちは非常に小さいときから、モードの切り替えに慣れてしまいました。モードが変われば、一切のルールが切り替わります。それが当たり前の世代が成人し、若い人たちはそれを不自然とは思っていないだろうと推測しますが、

このようなことは、実際の世の中に照らし合わせれば、かなり不自然なことなんじゃないでしょうか。

幼稚園に、仲良くするモードと、競争するモードがある、と解釈してしまえば、葛藤はありません。うまく適応して幼稚園に行けるでしょう。でも、精神的な成長はありません。大きくなっても、ライバルと友情を分かち合う喜びは得にくいでしょう。

昨今の人びとの振る舞いや考え方の中に、モードの切り替えという比較的新しい思考法が影響を与えているのではないか、と考えるのは私だけでしょうか。小さい頃からこの思考方法に慣れてしまうことが、古い世代と新しい世代の大きな違いになって現れていないだろうかと心配になります。