世代間に受け継がれるもの

学校の勉強に関して、「調教」という言葉を出してみましたが、これにはややこしい歴史を考えに入れないといけないように思います。

日本の教育を歴史的にたどるとそのルーツは藩校や寺子屋など江戸時代に求めることができるだろうと思います。子どもたちは武道やお稽古の師匠に習うこともあれば、奉公先で仕事を教えてもらうこともあっただろうと思います。日本の伝統に根付いた、人を育てることの文化があったと考えられます。

一方で、明治以降に入ってきた、西洋式の軍隊の教練というのがあります。これはどちらかというと動物の調教に近い、パターン反射を覚えこませるものでしょう。自由な考えを持つことを制限し、忠実に命令に従うことを求め、からだが自然に動くまで同じ動きを繰り返させる「しごき」の訓練が行われます。軍隊が強くなるためには必要なことだったのだろうと思われます。

ひとを育てる「教育」と、軍隊を強くする「教練」は、もともと別のものですが、日本の学校にはそれがまぜこぜにはいってきた時期がありますよね。
昭和の戦争の時代。詳細な年代は知らず映画や小説で観て知っている程度ですが、軍事教練が学校でも行われていました。その時代に子どもだった世代が、ちょうど私たち今の50代が学校で学んでいた時代の教師たちです。
彼らには、「教育」と「教練」の違いがわかっていたのでしょうか。

虐待の世代間連鎖というのがあります。
親から虐待されていた子どもはまた、親になったときその子を虐待してしまう。そのメカニズムは難しいものがありますが、現象として報告されているものです。
教育に関しても同じように、人は「習ったように人を教えようとする」傾向を持つと考えれば、どうでしょう。私たちが習った教師や親たちのなかに、人を育てることと、人を調教することの混同があり、それが世代間に連鎖していっているのではないでしょうか。

戦後の復興期には、日本全体が経済復興という目標のためにまとまっていく必要があり、武器はまとわなくてもなお一丸となって戦う必要があったのだろうと思います。そこではまだ、人は調教される必要があったのかもしれません。
受験は戦争に例えられ、私たちは勝つことを求められ、合格率をあげるために一致団結することを求められました。とっくに終わってしまった戦争の亡霊に支配されていたと見えなくもありません。

今、ほんとうに人が育つとはどういうことなのかを考えるのは難しいことなのだろうと思います。
虐待されて育った子どもは、あんな親には絶対ならないと心に誓ってもなお、虐待してしまうものなのだそうです。世代間連鎖の根っこはとても深いところにあります。
教育問題を語る上で、政府関係者の論議の前提が全くかみ合わなかったり、教師と保護者がまったくすれ違ったり、いろんなレベルでぎくしゃくしてしまうのは、ひとつには、人が育つということをどう考えるかという大前提の違いがあるだろうと思います。教練しか知らない人には、教育とは教練であり、調教なのだろうと思います。それが無意識のものであればあるほど、亡霊としてつきまとっているものなんだろうと思うのです。