子どもの貧富の差が、学力の差になり、成人後の階層の差になる、と言った言説があるのは、多くの人がご存じだと思います。塾に行けない子どもを行政がサポートしていたり、また、伝統的には奨学金制度というのもあります。
でも、それだけじゃないよね。。。ってずっと思ってきました。お金だけじゃない。
自制心や思いやりのある子と、そうじゃない子、この差が、人生の幸福度を分けていく。その根底にあるのが、養育者との信頼関係。アタッチメント。
学術的な根拠をきちんと示しながら、世の中(他者)に対する基本的な信頼が構築されている子どもとそうじゃない子どもとの差異が語られて行きます。「養育者との間に関係を築けない場合は「自分は愛されない存在だ」「他者は自分に意地悪をする存在だ」と考えるかもしれません(p.118)」
やっと、こういくことをきちんと書いてくれる人が出ましたね。ありがたいです。
では、母親が、そのような基本的信頼が薄く、世の中を敵視しているような人物だったら、どうやって、その子は、基本的信頼が築けるというのでしょうか。「保育士や教師と良好な関係が築けることもある」とこの本にはあるのですが、私の場合は、そうであればあるほど、自分の母親のことが悩ましく、心のどこかで、本当は私を可愛がってくれていると思い、何度も裏切られ、傷つき、それでも呪うこともできませんでした。
世の中がおかしいのか、自分の母が間違っているのか。
世の中を肯定すれば、自分の母を否定することになる。
都合の悪いことは嘘でごまかしてやり過ごしていた母。きょうだいでトラブルになると、それぞれに相手の悪口を吹き込んで収めようとした母。外面よく笑顔を作っては、家に帰って悪態をついていた母。
そんな母親は、うちの母だけではないのかもしれないけれど、世の中にどの程度存在するのか、つまるところ、
私の母親はどのくらい特殊だったのか
それが読めないために、ずっと混乱してきたような気がします。
自分の母親に、私がつらいときに励ましてくれることや、私が私らしく生きることを応援してくれることや、私が苦しい思いをしているときに手を差し伸べてくれることなどを期待してはいけないということ。自分の母親にはそういうことが無理だということを理解すること、それがつまり、自分の母親がありのままであることを認めることなんだと、ある種の割り切りというか、思いの断ち切りというか、そういう心境にやっとなれたのが、昨年の終わりごろでした。その一つのきっかけが上に挙げたこの本でした。
母も寂しい人なんだと思います。自分自身の心が豊かでなければ、人を励ましたり、応援したり、手を差し伸べたりすることはできないはずですから。
それでも、母はそれなりに苦しみながら、私を育ててくれたのだろうと思います。そのような母のもとに生まれてくることが、私の運命だったのだから、これが私の一生の課題だったのだから、これで良いのだと、今は思えます。