小さなパニックが私の人間関係にもたらしたもの

最近、生きやすくなったと感じています。

人と関わることが怖くなくなりました。相手にも気持ちがありますし、想定外の反応に傷ついたりします。でも、それは当たり前のこととして、受け止めることができるようになってきました。

先日60歳になったところです。やっとここまできました。

立場を置き換えて考えることもやるようになりましたし、それを踏まえて謝ったり断ったりしながら、それでも自分の主張したいことをうまく通すよう戦略的にふるまうことも少しできるようになってきました。

このブログでずっと書いてきたように、まず、自分の感情にしっかり気づき、それを受け止める訓練をするところから始めて、相手の感情に注意を向け、自分と相手を自分の中で対話させることへと進んできました。

このやり方は学んだり伝えたりすることができる技術で、それを学ぶ機会がなかっただけだと私は思っています。でも、今までの私にはそれがなく、不自由な思いをしてきました。

恐らくとても小さい時の傷つきに由来する反応のパターンが、環境からそれを学ぶ機会を失わせたのだと思います。私はこれを”生まれつき”とは呼びたくない、とずっと思っていますが、いわゆる発達障害という状態が私にあったということを、自分の内部感覚から納得できるようになってきました。

そこで、改めて気づいたのは、私は非常に些細なことでも、小さなパニックになって、凍り付き反応を起こしていたということです。思ったのと違う相手の反応、冗談まじりに突っ込まれる一言、辛そうにしている誰かを見ること、危ういところを助けてもらう経験、そのような、ちょっとした想定外の出来事で私はフリーズし思考が止まってしまい、硬い表情で相手の顔を見つめてしまっていました。

これが、おそらく、相手にとっては、別の意味を持っていたのではないか、と今になって思います。私が、何ものにも動じず相手を睨んでいるとか、助けてやったのに礼のひとこともないとか、つまり、「あんた何様のつもり?」と相手に思わせていた何かだったのではないかと。

学生時代はよく発表もし、テストの成績も上位で、生徒会活動などもやっていました。ピアノも弾けたし、情緒的になにか問題がある人間には見えなかったと思います。自分でも優秀な人間だと思って大きくなりました。でも、特に相手を見下していて威張っていたわけではないです。というか、そういう人と人の関係性に関する感情の機微が感覚としてよくわかっていなかったと思います。

説明しても、私のパニックとフリーズを理解する人はほとんどいないと思います。多くの人が、私のことを威圧感のある嫌な反応をする人だと思ってきたと思うし、そのことが私をもっと孤立させてきたと思います。でも、私がこの構造を理解できたことは素晴らしいことだし、私の人生を一歩前へ進めることだと思います。