教養コンプレックスというのを意識したところで、案外これに似たものを抱いている人は多いように感じてきました。ただし、人によって微妙なズレを感じます。
資産と学歴がある人たちに憧れを持つ人は多いですが、
華麗な生活、優雅な振る舞いなどに特に興味を持つ人たちも多いようです。
これは、ブルジョアコンプレックスというものでしょう。
中流といわれる人々が次に目指しているのはここで、子どもを良い学校に入れ、収入の高い職業に就かせることで、それを達成しようとしているように見えます。
気がつけば、この手の人はかなり多くて、たいていの世話話にはその種の話がでてきているのですが、私は今まであまり意識していませんでした。
意識してなかったというのはヘンかもしれませんが、これは私の特殊な事情にもよります。自分のコンプレックスと違っていたのでピンとこなかったというのが正しいかもしれません。これはまた別な機会に。
教養のお隣には、人格という言葉もくっついてきます。
これは、どちらかというと、教養のあるほうの意識にくっついているもので、教養をつけることで人格が形成されるという信仰です。
人格的に不適当と思われる行動、姑息さ、卑屈さ、偏狭さ、などを見て、「教養が無い」と決め付けるやり方です。
この言葉は、べつに教養があると思われない私の母なんかも良く言っていました。
教養コンプレックスの別な形なのかもしれません。
実際には、たくさん哲学書を読んだ人の人格が優れているかどうかは疑問です。結局、人格とは何ぞやということになってしまうのかもしれません。
教養があると見なされている集団では、それなりの社会規範があって、その集団に属し続けるためには気をつけなければならない人間関係のルールを否が応でも学ばされるということがあるのかもしれません。特別な人間であるというプライドがその規範を守らせているのかもしれません。
自分以外の人の内面と深く関わっていくことで、確かに人は変わっていくし、人格は磨かれていくので、読書もそのような経験のひとつだといえばそれまでなのかもしれません。
「ブルジョア」と「人格」は、「教養」とセットになってでてくるけれど、たぶん別のものです。でも、これらが全部ないまぜになって、教養=ブルジョア=人格コンプレックスみたいになっている人もそれなりにたくさんいるような気がします。
ひとりひとり、すこしずつ違った形で。