解離していく現代と、発達障害の関係(2)

身体の時間―“今”を生きるための精神病理学 (筑摩選書)『身体の時間<今>を生きるための精神病理学』(野間俊一、筑摩選書)。前回にひきつづき、この本のことを書きます。

この本で広汎性発達障害について論じられた部分は10ページちょっとなのですが、いろいろ大事なことが述べられているように思います。

発達障害はもともと児童精神科の範疇だったこと。それが、成人例があると指摘されてから、「治療困難な青年期事例が誰でも発達障害に見えてくる「発達障害バブル」」(p.101)が起こったこと。診断に自信がもてない一般医が専門家に判断を委ねようとした結果、児童精神科や行政の窓口がパンク状態になったこと。この時代をやりすごし、現在は多少の落ち着きを見せているのかなと思います。診断バブル期(おおよそ2010年までぐらいでしょうか)に診断をもらった成人の方は、専門家の診断だからと後生大事にするのではなく、しっかり見直した方がいいのかもしれないです。

ウイングの三つ組(社会性の障害、コミュニケーションの障害、想像力の障害/固執傾向)は関係者には浸透している診断基準ですが、これだけでは診断してはいけないことになっているのだそうで、典型的な場合を除き、「多くの症例が診断困難な境界線上にいる」(p.103)と書かれています。

この本は精神病理学の立場から書かれている本なので、そもそもこの病の本質がどのように起こっているのかということを問題にしているわけです。それを追求していくと、反応性愛着障害とその症状が酷似していることに行き着きます。

現在ある社会性の障害や固執傾向などの発達障害症状が元来の発達障害のためか愛着障害のためかは、判別困難であることも少なくはない(p.108)

「社会性の障害」は他者に対する脅え、「コミュニケーションの障害」は言語交流に不可欠な情緒性の問題から、「想像力の障害/固執傾向」は不測の事態への警戒心から生じた可能性ということを、この本では指摘しています。「周囲への硬直的な警戒」と考えるとわかりやすい点が多いというのです。なんらかの生まれついた素因が関与して発達障害が起こるということは事実としても、ひとつひとつの症状については「そもそも生得的な機能障害ではなく、誕生後環境との相互作用の中で形成された可能性」(p.108)があると考えられないだろうかということなんですよね。

私も、その点がずっと引っかかっていたんですよね。
こうやって、専門家の方が書いていただいているのを読むと、胸がすく思いです。

昔から一定の割合でこの素因を持った人はいるのだとして、それが、社会適応に問題を起こす症状として出てくるのは、人と社会との関係からなのではないかという仮説がでてきます。親の育て方というような狭い範囲の話ではなくて、社会のあり方そのものが「発達障害化」(p.110)しているのだと。

今日の硬直した社会が自然な対人交流を阻み、他者との愛着関係を歪め、そのことが逆説的に素因を持つ者にとっては大きな負荷となって、元来持っている発達障害傾向が増大させるのであろう。社会の硬直がそこに住まう人たちを硬直させるのである。(p.110)

前回取り上げたように、広汎性発達障害解離性障害、新型うつ(この本では「2000年型抑うつ」と表現されています)は共通して生々しい現実から遠ざかる方向性を持つとこの本には書かれていました。これらの診断例が最近増えているのは、現代における時代の気運を反映しているとみなされています。

解離性障害の人が、記憶からその傷を呼び戻さないために、生の現実、生身の身体から離れてしまうことと、広汎性発達障害の素因を持つ人が、周囲への脅えや警戒から身を固くしてしまうこととは、連続性があると考えていいのだろうと思います。実際、二次障害として解離性障害の状態を引き起こしている場合もあるでしょう。

新型うつも「心的外傷あるいはストレス」に関連し、つらいことを思い出させる状況を回避する状況と理解できると書かれています(p.75)。

現代は、人々は傷つきやすくなり、その傷から回復できずに、傷をかばう行動として現実世界から遠ざかろうとしている。かなり大雑把なまとめかたですが、一言で言えばそういうことだと思います。

生々しい現実から遠ざかることを「解離的」と表現すれば、ITに囲まれた現代の生活じたいが解離的です。こころの傷との付き合い方が以前とは違ってきているのだと考えられるようです。傷がつきやすくなったのではなくて、傷から回復できなかったり、傷があっても生きていくことができなくなった。

そのあたりのことを、次回に書きたいと思います。