縁という発想と南方曼荼羅

ところで、縁というのは仏教の言葉で、日本人にはなじみ深いものですよね。

一期一会という言葉を座右の銘にしている人も多いし、偶然の出会いには何らかの深い意味があると考え大事にする人が一定数います。

 
先日の、二階建ての哲学の話にもどると、
この偶然性に対する感じ方が、どうも西洋のものの考え方と相容れないという話になります。
最近物理学のほうで、偶然性を取り入れた理論が出てきたと話題になっています。私には詳細はわからないのですが、話題になっているということは、それまでは物理学は必然性だけを扱ってきたということなんだろうと思います。

つまり、因果関係。原因と結果の関係がわかるということが、科学的ということだということです。統計学で何でも<科学的に>証明できる世の中だという話もでてきましたが、ここでは偶然は排除して原因と結果の関係を見ていくということでしたよね。

そこで就職の話に戻ると、テレビでインタビューを受けた学生が、自分のアピールが足りないからだとか、面接対策の工夫が足りないからとか、敗因の分析をしているのが映るんですが、これでは、因果関係を論じていますよね。実際厳しい現実があるのはわかるのですが、もっと縁の発想があっていいと思うんですよ。

因があって、縁がある。必然があって、偶然がある。因縁。


曼荼羅の思想曼荼羅の思想』(鶴見和子・頼富本宏、藤原書店2005)という本に、南方熊楠曼荼羅の話が出てきました。南方熊楠という人はかなり変わっていて、戦前の大学予備門を中退して海外に渡り大英博物館にこもって見識を深めた人です。彼は西洋には因果関係の学問はあっても偶然性を取り上げないということに気づき、因と縁を包括的に扱う仏教の哲学のほうが高い論理を持っていると考えたといいます。

本に載っている南方曼荼羅というのは曲線と直線でできていて、しろうとが見ると落書きにしか見えないようなものでした。どこが凄いのかよくわからないのですが、とにかく彼は、「いくつかの自然原理が必然性と偶然性の両方からクロスしあって、多くの物事を一度に知ることのできる点「萃点(すいてん)」が存在すると考えた(p.14)」のだといい、そのことを示したのが、南方曼荼羅だということらしいです。

わからないなりに、でもなんとなく、言いたいことは伝わってくる感じがするんですが、いかがでしょうか。

理屈もある、でも理屈では通らないこともある、世の中とはそのようなものでしょう。
それをまるごと説明づけようとすれば、それは縁としか言いようがない何かにいきつく。日本人の文化の中にそれは息づいているし、当たり前のようにそこにある。

ここで働きたいという理由が理屈を超えている場合もあるし、採用する側から見てもこの人と一緒にやっていきたいと思う理由が理屈を超えている場合もある。なんとなくピンとくるといった感覚のようなもの。そういえば、赤い糸のコマーシャルも流れていますね。

南方熊楠が論じたように、偶然性と必然性を同じレベルで扱う私たちの哲学のほうが、西洋のものの考え方より優れているのかもしれないです。もっと胸を張って、縁を大事にしていってもいいと思います。もちろん、因のほうも大事ですから、さまざまな努力は必要ですけどね。