「信頼」と「安心」は似て非なるもの

生きていくうえでの大きな文脈としての「信頼」について書きます。

これは、同じく生きていくうえでおなじぐらい大事な文脈としての「安心」とは別のものです。

太陽は毎日東から昇ってくるし、空は青く、息を吸えば空気があり、大地は重力で身体を捉えてくれます。変わらない、揺ぎない確固とした世界の中で私たちは安心して暮らしています。
この世の中に生まれてきたときそこには親がいて、家族に囲まれて安心して食べ、飲み、眠ってきました。
普段は意識していないけれど、おおきな「安心」に抱かれるようにして、私たちは生きているのだろうと思います。

私が言おうとしている「信頼」はそれとは別の、人と人との間に結ばれる絆のことです。

これは、初めて会った人との間にはまだ結ばれておらず、いや、出会った瞬間から細い糸のように結ばれ、言葉やしぐさ、目線などのやりとりを通じて、お互いにその糸を太く美しく紡いでいくものです。絆の感覚は、音感やリズム感などのように、目には見えないけれど確実にあるし、鋭い人鈍い人があり、また、訓練することで研ぎ澄ますことができるものです。

見える人には見える、感じる人には感じられる、繋がりの感覚。

人は育っていく過程で、この感覚を使いながら、どうやって他者と接するのか、ひとつひとつ学んでいくものなのだろうと思います。ときには失敗して信頼関係を壊し、ときには複数の価値に葛藤しながら、何が正しいことなのか、どうすればその絆は壊れないのか、どうすればその絆は太くなるのか、その方向を間違わずに学んでいくことができるものなのだろうと思います。

でも、その感覚が鈍っていると、何が正しいのかを自然とわかることができないです。
漫然と周りの人がやっていることを真似ていても、うまくいったりいかなかったり、経験から学んでいくことができないんですね。

ある時期までの私は、絆の感覚が鈍かったと思います。わかってきたのはごく最近、ここ数年といっていい。わかってきてみると、世の中で普通に生活している人たちの全てが、この絆の感覚をしっかり持っているわけでもないのが見て取れるようになりました。

一人の人間が接するのは家族や職場の人など限られていて、必ずしもそれは一対一の信頼関係で成り立っている関係ではなく、たまたま何らかの集団にいることでできている関係だったりします。そのとき、絆を紡ぐ努力なんてしなくても、なんとなく、その集団に属している安心感だけで社会につながれていることができるんですよね。

絆の感覚が弱いと、安心の感覚に頼ることになり、ちょっとしたことでその安心が揺らぐと、不安が強くなり、つまらないものにしがみついてみたり、こだわってみたりするものじゃないでしょうか。それは、発達障害と呼ばれる人たちの心理と共通しています。

「信頼」は「安心」とは違い、主体的に相手に働きかけて造っていくものです。相手から差し出されるものを受け取り、タイミングよく相手に返していくことを繰り返す作業の中で、関係が作られていることを確認していく作業です。こうやって懸命に言葉で説明しようとしても、見えていない人にはピンとこないだろうと思います。でも、

見えかけている人には、何か伝わるんじゃないかと思います。