「悔しい」と「妬ましい」は違う

私には長い間「悔しい」という感情が無かったという話を前回書きました。
そういえば、小学校4年生のとき、合唱コンクールで予選落ちしたとき、他のメンバーが顔をぐしゃぐしゃにして泣いているのに、私だけ涙がでなくて、先生に嫌味を言われたのを覚えています。
ロマンチストな先生だったので、みんなで校舎の屋上に上がって、夕陽を見たんですよね。確かに物悲しい、ぽっかりと穴が開いたような気分でしたが、悔しいという感情はあのときも無かったように思います。
ちょっと変わった子どもだったし、そのことが大人になって病気になるひとつの要因にはなったのだろうと思います。それを発達障害とか二次障害とかそういう呼び方をするかどうかは見方によると思いますが、もっと広く、いろんな人の中にさまざまな違いがあって、それぞれの人生に影響しているものなんじゃないかと思います。

いろいろ考えているうちに、「妬ましい」という気持ちは心当たりがあることに気づきました。この気持ちは私にも小さい頃からしっかりありました。私には妹がいて、さまざまなことでよく比較されました。何か自慢するようなことがあっても妹が妬まないように気遣うよう、親に言われたことも多々ありました。

「妬ましい」と「悔しい」は近いけれど違う感情ですね。妬むという気持ちは、誰かと比較して劣等感を感じたときの気持ちです。でも、悔しいは自分自身の中で、やり遂げたかったことができなかったときの辛い気持ちです。

先日読んだ、『嫌われる勇気 自己啓発の源流アドラーの教え』(岸見 一郎・古賀史健、ダイヤモンド社2013)に出てきた、
嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え  健全な劣等感
という言葉を思い出しました。健全な劣等感は、理想の自分に対して抱かれるものだと心理学者のアドラーが言っているそうなのですが、それこそが、「悔しい」という感情に相当します。できるはずの自分、あるべき自分の姿に対して、現実が届かなかったときの気持ちです。

できるはずの自分。

それは、いわゆる基本的自尊感情に相当するんじゃないかと思います。誰とも比較しない、愛すべき自分自身へのプライド。健全な人生を底から支えてくれる力です。

これに対して、他人と比較して優越していることに依存するプライドを社会的自尊感情と呼んでいます。私は人より優れたことがあっても、妬まれることばかり気にしていたように思うので、こちらに偏っていたのだろうと思います。

私に基本的自尊感情が全く無かったわけではないけれど、なんらかのもつれが、かなり小さい時期からあったように思います。それを取り戻すことで、今の私があるわけです。