悲しい−は何かが欠落している気分

最近、近所の桜の並木が切られまして、寂しい思いをしています。

私有地にあったもので、そこを売らなければならなかった事情もわかるし、開発に適した土地であることも理解できます。何しろ人の土地で起こっていることで私に何を言う権利もないことに違いないのですが、

あの桜の下を通ったさまざまな春の日の思い出が去来して、やりきれない思いです。

桜のあった場所は私有地になる前にはため池だったらしく、その堤にぐるりと植えられた桜は昭和の中期ごろにはたくさんの人が花見に訪れていたという話を聞いたこともあります。根っこはその敷地内にあるのですが、立派に伸びた枝が道路にはみ出していてトンネルのようになっており、私が以前子育てや介護でほとんど家から出られなかった頃も、買い物のついでなどにその道を通ることで季節を感じることができました。
土地が売られると聞いたときも、なんとなくぼんやりと、新しい建物が建っても古い桜並木だけは残るのだと思い込んでいました。甘かった。

もう、なくなってしまいました。

この先もずっと、そこにあって欲しかったものが、もう、ない。

悲しい。

こうしてみると、悲しいという感情は、こころの中で描いているこうあって欲しいというものが何か欠けてしまっている感覚であるといえるように思います。
桜の木を失って、私の中で欠けてしまったものは、思い出ではありません。思い出は記憶の中にそのまま残っているのに、それを共に再生してくれる相棒というか、友達を失ってしまったような感覚です。私たちは知らないうちに、周りの風景に感情を投入してその土地で年を取り、その土地に愛着を覚えるのだろうと思います。

愛着。この世に生まれて初めての頃、世話をしてもらった人や身近な衣類などに持ったような、包まれるような安心感。離れがたい強い思い。

花の時期だけでなく、若葉の頃、落葉の頃、何度となく通ったこの並木の下で、さまざまな思いがありました。桜にその思いを受け止めてもらっていたような気持ちがしていました。ずっと、そうやって、自分の傍にいてくれるのだと、こうやって唐突になくなってしまうことなどないのだと、思っていました。

愛着したいという気持ちが満たされない、欠けているというこの気分が、悲しみなのでしょう。
全身に染み渡るこの悲しみを、ただ、そこにあるものとして感じようと思います。
身を硬くするのではなく、ただ、その感情を味わうようにしてみようと思います。

それが、トランスとかマインドフルネスとか、そういう言葉を使って私が話題にしようとしてきたものに通じる態度だと思うのです。
ネガティブな感情を押し込めたり、すり替えたりすることなく、ただそのまま味わうことは、ちょっとした痛みを伴いますが、じきに慣れてきます。
ゆっくりと呼吸しながら肩の力を抜き、今起きている感情と、淡々とつきあうこと。

あ、いま、悲しいな。。。って、感じながら、淡々と自分の時間を持つこと。

そうやって感情を味わいつくすと、時間が流れ始めます。桜の木がなくなったことを、少しずつ私は受け容れようとしています。