病室で考えたこと、そして今でも続いていること

私の裂孔性網膜剥離、黄斑上膜に伴う眼の手術(硝子体手術)は約2時間かかりました。局所麻酔だったので手術の全ての工程を意識のある状態で体験し、執刀医の息遣いから強い集中を感じる瞬間もありました。10日あまり入院しましたが、大学病院だったので同じ病室には内臓の重い病気の方もおられましたし、私自身も再剥離や細菌感染などを起こせば失明に繋がるデリケートな状態を通過しました。看護師さんをはじめ病棟で働いている方々が、ひとりひとりの患者の命や健康に真摯に向き合っておられることがひしひしと伝わってくる経験はとても貴重でした。仕事に対するまっすぐな姿に、心を動かされました。

執刀医が病院のホームページの自己紹介欄に手術の「丁寧さ、確実さ」をモットーとして掲げておられて、その言葉がとても印象に残りました。これって、多くの「仕事」に共通する鉄則ではないでしょうか。

自分がいかに粗雑でだらしなく、やることが穴だらけだったのか、そして、失敗しても周囲に許してもらえると甘く考えて努力を怠ってきた結果、どれだけつまらない人間になって今に至っているのかについて、病室でひとり、片目ガーゼで覆われたパジャマ姿で、カーテンに覆われた暗いベッドの上で考えました。その思考は退院して2か月以上過ぎた今も、続いています。

ここで「仕事」と呼びたいものは、どんな職業かとか、社会的に責任を負う立場であるかとかそういうことを超えたものです。何かを頼まれて誰かのためにやること、直接は頼まれていなくても最終的には誰か自分以外の人の役に立っていくこと、そうやって他の人と信頼で繋がっていくようなことがらは皆「仕事」としての性質を持っています。明確な報酬がないような頼まれごとでも、家の中の細かい用事でも、丁寧で確実であることによって信頼を得ることができ、社会の中に居場所を得ることができ、それはストレートにその人の「幸福な人生」に繋がっていくはずです。

「丁寧さと確実さ」は、幸福へのオールマイティな鍵なのではないか、と考えると同時に、それを当たり前のように親から受け継いできた人々に対して、恨めしい感覚を持ちました。自分はその点ではあまり恵まれてはいなかったかもしれません。でも、「丁寧」や「確実」が持つ感触、質的な感覚がうまくつかめたように感じる今、自分の中にそれを取り入れていく努力を続けることは、可能です。なりたいと思うものをイメージすることができれば、なれます。なりたいと思わないものには絶対なれないけれど、なりたいと思うものには、なれるはず。

手術と入院の経験から2か月ちょっと、何を考えてきたのか、もっと早く書きたいと思っていましたが、なかなか目の調子が戻ってきておりません。パソコンも読書も2時間が限度で、それを超えると視界がかすんだり充血してきたりといった状態です。こんな状態がデフォルトになってしまうのかもしれませんが、自己管理をすすめながらやれるだけのことをやってみようと思います。書き続けることも、私の「仕事」だと思うので。