「しごと」と胆力と創造の泉

「しごと」と私が言っているのは、賃金をもらえるかどうかとは関係なく、もっと広い意味でのことです。

その人に期待されている社会での役割を果たしていること。たとえば、秘密を守るとか、集合時間に遅れないとか、そういうことも含めてです。頼まれたことがちゃんとできていること。できばえにムラがなく、安心してまた頼むことができること。

小さい子どもにだって、しごとはあります。信用できる子どもと、いまひとつの子どもがいます。学校の成績が良くても、しごとはできない子どももいます。

子どもはいつか大人になって、社会の一員としてなんらかの責任を担うことを期待されているのだから、どうやって信用をつくるかということをしっかり教える必要があるだろうと思いますが、いまの教育論議を見ている限り、そういう発想はあまり感じません。
もともとそれは家庭の責任だったということもあるのでしょうが、社会全体がものを作ることより消費することに傾いているせいもあるのだろうと思います。

「しごと」をするためには面倒くさいことに取り組める力が必要だし、無から有へ、なにものかを創り出す力も必要です。以前話題にした胆力や、創造の泉の力が必要です。「しごと」ができることで社会に受け入れられることができます。昔の農村だったら、農作業の手伝いができたり、家事の一部を任されたりすることで、「しごと」は十分成立したのだろうと思います。それらのしごとは今ほど単純化されておらず、それなりの熟練が必要で、創意工夫の余地もあっただろうと思います。そして、たくさんの人が協力して大きな仕事を作り上げる場所が、家庭の周辺に当たり前にあったのだろうと思います。

いま、私たちは、消費のまちで寝起きしていて、生産の現場を身近に見る機会はほとんどありません。子どもは、「しごと」を学ぶことなく年齢を重ねているし、私もそのようだったと思います。